「社会学講座」アーカイブ(世界史・1)
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講義一覧
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11月1日(金) 歴史学(一般教養) |
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さて今日は、最終的に古代オリエント世界を統一することになる、アケメネス朝ペルシア帝国(王国)の建国からそのオリエント統一までのお話をしてゆきたいと思います。 最近はあまり“ペルシア”という名前を使わなくなりましたが、この言葉は古代から現代に至るまで、現在のイラン地方を示す地名として使われていました。 この無名同然の地方政権が、東の中華帝国と並ぶ世界を代表する巨大国家にまで成長したきっかけを作ったのは、キュロス2世という王が歴史の表舞台に現れた時でありました。 古代ギリシアの歴史家・ヘロドトスの残した記録を信じるならば、キュロスは当時ペルシアの宗主国であったメディアの王家の血を引いているそうであります。以下、彼にまつわるエピソードについてしばらく時間を取ってお話しましょう。 それから10年の年月が経ちました。 ペルシア王となったキュロス2世は即位後から、因縁深き宗主国・メディア王国の打倒を画策し、着々と準備を重ねてゆきました。 そんなキュロス2世の30年に及ぶ治世は、戦いに次ぐ戦いで占められたようであります。主な国を滅ぼしたとはいえ、オリエントには未だペルシアを宗主国として認めない小国が多数存在していたのです。そしてまたその最期も、ペルシアに歯向かう遊牧民との戦争において、王自ら勇敢に戦った末の戦死と言われています。 キュロス2世が死んだ後は、既にバビロニアの太守として実地で帝王学を学んでいた長男・カンビュセスが即位してカンビュセス2世(在位:紀元前530〜522)となります。当時のペルシアでは長男には自分の父親の名を授けるという伝統があり、そのため、キュロス2世の父親の名を譲り受ける事になったのでありました。 さて、王弟の反乱という国家の一大事に、肝心の王を失ったペルシアは、これまでの安定した統治から一転、大混乱となりました。こういう時には血統よりも実力がモノを言う社会になるのは世の必定でありまして、この時も王座を手に入れたのは王弟・パルディヤではなく、先王カンビュセス2世から見れば曽祖父の弟の4代孫という遠縁にあったダレイオス1世(在位:紀元前522〜486)でありました。 そんなダレイオス1世の行った治績の中で最も有名なものが、王都スサ(現在のペルシア湾岸・イラン・イラク国境付近の都市)に鎮座するダレイオスに全ての権力が集約する、中央集権体制の確立であります。彼は、それ以前に栄えた大国であるアッシリアやメディアの制度を参考にしつつ、独自の支配を進めていったのであります。 ところで、ダレイオスの時代には、イラン地方発祥の宗教・ゾロアスター教の普及が進みました。 最後に、古代ペルシアの文字についても、少々のエピソードをお話しておきましょう。 ──このようにして、古代オリエント世界はアケメネス朝ペルシアの手によって完全統一が成されました。これにて古代オリエントの歴史は一応の終幕となります。 今回をもちまして、この「学校で教えたい世界史」は、しばらくのお休みを頂きます。今のところ、再開は11月の第4週辺りを予定しておりますが、詳しくはまたお伝え致します。なお、再開後のこの歴史学講義は、週1〜2度の実施にペースを落として実施する予定です。受講生の皆さんには御迷惑をおかけしますが、悪しからずご了承下さい。 |
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10月30日(水) 歴史学(一般教養) |
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それではこれより、これら4つの国それぞれの歴史について、簡単ながらお話してゆくことにしましょう。 まずはメディア王国から。この国では文書を遺す習慣が無く、未だに余り詳しい事が分かっていないのでありますが、可能な範囲でお話します。 この国は先に述べた通り、元々はメソポタミアとは縁の薄いイラン系の騎馬民族たちが統合して出来たものですが、このメディアの民族そのものは紀元前10世紀頃から存在したと言われています。 しかし、最後にはこの広い領土が逆に仇となりました。要は目立ち過ぎたわけです。 紀元前550年、この国の強さに恐れを抱くようになった同盟国カルデアが、当時急速に力をつけつつあったペルシアに働きかけ、メディアを挟み撃ちにします。 このバビロニア一帯、紀元前8世紀終盤〜7世紀初頭のアッシリア全盛期には、当時のオリエントの他地域と同じように、その大帝国の支配下に置かれ、厳しい占領政策を敷かれていました。しかし、先程から述べていますように、紀元前7世紀アッシリアの混乱に乗じて独立を回復すると、間もなくしてメディアと同盟を結び、これを滅ぼします。この時、カルデア王国はオリエントを代表する国となったのでありました。 カルデア王国の領土は、基本的にはメソポタミア中・南部の限られた範囲に留まっていましたが、この国の最盛期であるネブカドネザル2世王(在位:紀元前605〜562年)の時代には、エジプトを破り、ユダ王国を滅亡させるなどして、その勢力圏を一気に押し広げました。第16回で述べた“バビロン捕囚”が実施されたのもこの時です。 また、ネブカドネザル2世の時代には、様々な建築物が築かれた事でも知られています。その中でも、“世界七不思議”の1つと言われた“バビロンの空中庭園”が非常に有名であります。 しかし、このカルデア王国もネブカドネザル2世の死後は急速に衰退します。経済力を背景にした豪商たちが政治にも口出しするようになって、国が乱れたとも言われています。
このリディア王国は、その地理的条件からギリシアとの交流・交易があり商業が盛んで、更には貴金属が採取出来たこともあり、世界で初めて鋳造貨幣を発行した国として知られています。これらの貨幣、始めは金と銀の合金で、後には100%金貨の貨幣も発行しています。 ただ、リディア王国は他の国のように国力や歴史的なバックボーンに乏しく、対外的には終始受身の姿勢を強いられました。建国間もなくから東隣のメディア王国からの侵攻を受け、長年の防衛戦争を強いられました。
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10月28日(月) 歴史学(一般教養) |
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このアッシリアは、メソポタミアの北の辺境・ティグリス川上流域にある都市・アッシュルを中心とする国で、その歴史は殊のほか深く、紀元前21世紀に建国されています。 このようなアッシリアの“下積み”時代は約1000年にも及ぶのですが、その間にも時には優れた君主が現れて、存在感をアピールしています。 中でも特に王の手を煩わせたのが、2人いた息子の内の次男坊、つまりは第2王子で、王からこの“馬鹿息子”に対する手紙が山のように発掘されています。
しかし、兄と比較されてスネてしまったのか、この王子の行状は一向に良くならなりません。そこで王は更に手紙を書いてよこしたのでありました。
……まるでテキストサイト管理人に送りつけられた中傷メールのような罵詈雑言の羅列であります。が、南方では着々とハンムラビ王による征服活動が進んでいるという当時の周辺事情を考えると、このシャムシ=アダド1世王の焦りも痛い程よく分かるものであります。 その流れがやや変わり始めるのは、紀元前14世紀半ばの事。アッシュール=ウバリト1世という王は、この国をミタンニの属国から独立させ、国力増強と軍国化を開始します。ここから、後のアッシリアの強大な軍事力が培われる事になるのであります。 紀元前9世紀、いよいよオリエント世界にアッシリア帝国の時代が到来したのでありました── 後にオリエントの覇者となるアッシリアの、そのベースとなる部分を築き上げた王は、アッシュルナシルパル2世(在位:紀元前883〜859)。“アッシリアの狼”という異名を与えられた、その石像に遺された鷲鼻で冷徹な表情が今なお見る者の恐怖をそそる専制君主であります。 その後は、ごく一時期内政が混乱した事もありましたが、アッシリアは紀元前8世紀以降、飛躍的な発展を遂げてゆく事になります。厳しい占領政策にも関わらず、各地での反乱は絶えませんでしたが、そのことごとくを力で捻じ伏せて、被征服民に付け入る隙を与えませんでした。 こうして栄華を極めたアッシリア大帝国でありましたが、その絶頂を深く味わう暇も無く、間もなくして衰退への道を辿ってゆくことになります。 アッシリアの滅亡後のオリエントは、先ほど挙げたカルデアとメディアを含めた4つの大国が割拠する“四国時代”に突入します。その時代のあらましについては、また次回に譲る事としましょう。(次回へ続く) |
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10月23日(水) 歴史学(一般教養) |
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そんな分裂後のイスラエル・ユダ両王国は、政変が繰り返されて次々と王朝が交代したイスラエルと、ダヴィデの子孫によって比較的安定した政権が維持されたユダとで対照的な歴史を歩んで行きます。 さて一方のユダ王国は、イスラエル王国が滅亡し、更に南へと迫り来るアッシリアのプレッシャーを感じつつも、しばしの安泰を謳歌していました。 そんな屈辱の日々の中で、バビロンで暮らすユダヤ人の間で1つの宗教が確立されます。それがあのユダヤ教であります。 …さて、今日は短めですがここまで。次回は、これまでも度々名前が挙がっています、古代オリエントを代表する軍事超大国・アッシリア帝国についてお話をしたいと思います。(次回へ続く) |
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10月21日(月) 歴史学(一般教養) |
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※過去の講義のレジュメはこちら まず、この地方の古代史の担い手になった人々を紹介しますと、彼らはバビロニア王国を建てたアムル人と同じく、メソポタミアとアラビア砂漠の中間地帯からやって来たセム系の民族でありました。 その中でも、アムル人に続くセム系民族の第2陣となったのがカナーン人と呼ばれる民族であり、更に彼らの内で、現在のレバノン周辺でいくつかの都市国家を建設した人々をまとめてフェニキア人と言います。 フェニキアの人々は他の地域と異なり、最後まで統一国家を形成しませんでした。しかしそれでも、レバノンの各地それも海沿いに、シドン、ティルス、ウガリットなど多くの都市国家を建設し、大規模な海洋貿易や、イベリア半島や北アフリカ地方への植民活動で大きな実績を挙げていました。世界史上でもかなり早い時期に分類される海洋民族であります。 また、フェニキア人は独自の文字・フェニキア文字を持っていました。 フェニキアは統一国家を持っていませんでしたので、その歴史の終わりもかなり曖昧ではありますが、紀元前9世紀頃からアッシリア(この国に関しては次々回に述べます)の圧力を受けて衰退し、やがてペルシアなどの大国に吸収されてゆく事になります。しかし、この民族が建設した植民地はその後も繁栄を続け、これからも世界史に深く関わってくる事になります。
彼らのルーツもまた、セム系民族が原住地から北へと移動してきた人々なのですが、その構成はやや複雑になっています。 このエピソードは非常に有名で、旧約聖書でも特に大きく扱われている出来事なのでありますが、歴史学の観点から見た場合、その実態は“非常に微妙”なモノであったと言わざるを得ません。 …と、何はともあれ、こうして2つの民族が合流して新しい民族が誕生しました。これがヘブライ人という事になります。 こうして誕生したヘブライ人たちですが、始めの内は狭義の意味で言うところの国家を持たずに、士師という宗教指導者をリーダーとする緩やかな共同体だったようです。 ダヴィデは政治でも軍事でも有能な、まさに理想的な指導者で、結果的に彼の治世がイスラエル王国の全盛期に相当します。国内はまとまり、対外戦争により領土も拡大します。あのペリシテ人たちも、この頃にイスラエル王国へ吸収される事になります。また、後の聖地・イェルサレムが都に定められたのもこの頃です。 そのダヴィデは在位40年(紀元前1000〜960頃)で亡くなり、その後を次子・ソロモンが継ぎました。 ……予定の範囲までは進みませんでしたが、講義時間がオーバーしていますので今日はここまでとします。次回はイスラエル王国史の続きを述べます。(次回へ続く) |
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10月16日(水) 歴史学(一般教養) |
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ヒッタイトの人々がメソポタミアの歴史の中に姿を現すのは、紀元前20世紀頃とされています。彼らはアナトリア半島(現在のトルコ共和国)一帯を領土にして王国を形成しましたが、元々その周辺に住んでいたわけではないようです。 これは、彼らが使っていた楔形文字(ヒッタイト語)が、シュメール人やセム系民族の使った文法ではなく、インド=ヨーロッパ系──インド、イラン、スラヴ、ギリシア、ラテンなどの各民族──の文法に極めて近い事が決め手となりました。 そんなヒッタイト人の故地について、詳しい事は分かっていません。しかし、インド=ヨーロッパ語を使う民族の発祥の地は現在の中央アジア〜ロシア南部周辺ではないかとされており、遥か昔の先祖はそこに住んでいたのではないかと思われます。 …と、このように繁栄の時を謳歌していたヒッタイトですが、その最期は非常に呆気ないものでした。 ……以上が、主に紀元前16世紀〜12世紀までのアナトリア半島〜メソポタミアの歴史でした。この後のメソポタミア地方は、建国から1000年以上の時を経て強大化したアッシリア帝国によって席捲される事になるのですが、これはまた後のお話です。 |
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10月14日(月) 歴史学(一般教養) |
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※過去の講義のレジュメはこちら
ではまず、古代エジプト社会と切っても切り離せない関係である宗教からお話してゆきましょう。 前回の講義でも触れましたが、エジプトの宗教は典型的な多神教であります。まずは天地創造の神・アトゥムがいて、彼が大気の神・シューと湿気の女神・テフヌトを産み、更に彼らが大地の神・ゲブと天空の女神・ヌトを産んで……というようにたくさんの神々が生まれ、そこからギリシア神話のような役職別の神や、各都市の守護神などへと繋がる形になっています。 あと、古代エジプトの文化に関わる神として忘れてはいけないのは、冥界の神・オシリスであります。 余談ですが、当時のミイラ作りについて、「エジプトはナイルの賜物」の名言で有名な歴史家・ヘロドトスが、詳細なレポートを残しています。 こうして人々は漏れなく不死の魂となる事が可能になったわけですが、一般市民にミイラが解放された頃から“冥界裁判”の思想が生まれます。どうやら「余りにも冥界に人が殺到するので、入口で数を間引いているに違いない」…という極めて現実的な発想が宗教の一思想に発展したようであります。 これも以前の講義で述べましたが、この時代にはピラミッドやスフィンクス、更には神殿などの巨大建造物が建てられました。この建造物の設計のために、測地術や幾何学も発展したようです。 ……と、途中から酷く駆け足になりましたが、古代エジプトの文化はこれ位にしておきましょう。次回は再びメソポタミア文明に立ち戻り、群雄割拠の歴史を追いかけてゆくことにしたいと思います。(次回へ続く) |
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10月11日(金) 歴史学(一般教養) |
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※過去の講義のレジュメはこちら おことわり:講義中に付記する年号が、参考書や「世界史B用語集」に記されているものと異なる場合がありますが、これは別の資料を参考にして講義を行っているためです。
さて、前回の講義でお話したように、異民族ヒクソスの侵入、そして約100年にも及ぶ支配を受けるという屈辱を味わったエジプト人ですが、実はこの経験は、彼らにとって大きな転機となったのでありました。 といいますのも、被制服民となった屈辱感はその人々に色々な感情を呼び起こしますが、エジプト人の場合、これは幸いな事にナショナリズム的な愛国心・闘争心に昇華されたのであります。 いつの間にか、恐らくは当事者たちも知らない間に、エジプトはオリエント最強クラスの軍事国家に成長していたのです。それは“黄金時代”と言って差し支えない輝かしい時代の始まりでありました。 ヒクソスを撃退した(紀元前1552年ごろ)後、即ち第18王朝以降の古代エジプトを新王国時代と言いますが、この時代にほぼ共通したスタンスは、“最大の防御は攻撃なり”であります。 この機動的な対外戦略が可能になったのは、先に述べた強力な軍隊を持っているだけでなく、エジプト国内でのファラオの地位が堅固であったという事も大きかったようです。 この新王国時代エジプトが1回目のピークを迎えたのは、第18王朝の第5代ファラオ・トトメス3世(在位:紀元前1490〜36頃)の時代でした。 この若きファラオは、まず第一に優れた将軍でありました。シリア・パレスティナ地方へと兵を送り、これを次々と占領・植民地化してゆきます。それまでこの地方を勢力化に置いていたメソポタミア地方の強国たちも、時には黄金の戦車に乗って先陣を切って戦ったと言われるこのファラオの前には、一様に沈黙せざるを得ませんでした。 ところで、この頃の文献には、当時のエジプト進出を裏付ける、少し面白いエピソードが残っています。 話を戻します。この“常勝将軍”トトメス3世の第二の姿は、優れた政治家としての知性派ファラオとしてのそれでありました。 こうして、有形・無形様々なものを残して、トトメス3世はこの世を去ります。その後、散発的に支配地域で反乱が発生しますが、ほとんどの場合、それらは難なく鎮圧されました。それくらいトトメス3世が残したエジプト“帝国”の組織が頑丈だったのです。これが、後の世の歴史家たちが、彼を“古代エジプトのナポレオン”と称する由縁でもあります。いや、ひょっとしたら彼はナポレオンをも超える才能の持ち主だったかも分かりません。 しかし、この世には全てにおいて完璧なものなど存在しないのも事実であります。そしてこの時の強固な王朝も、思わぬところから足元を掬われてしまいます。そのポイントは宗教にありました。 他の地方の古代王朝がそうであるように、古代のエジプトでも宗教は支配者と密接な関係を持っていました。 しかしこの状況を、当のファラオが見過ごすわけがありません。歴代の政権では、神官人事を巡るファラオ派と反ファラオ派のせめぎ合いが絶えず起こり、遂には強硬な手段に打って出るファラオが現れました。 このアメンホテプ4世が行った事績は、大雑把に言って2つに集約されます。 まず1つ目は新宗教・太陽神アテン信仰の創始であります。なんと、ファラオ権力と密接に繋がる宗教を自ら立ち上げてしまったというわけです。アメン=ラー神の力を弱めるのではなく、更に強い力を持つ宗教を作る事で、結果的にアメン=ラー神官の権力を弱めようとしたのです。コロンブスやコペルニクスが卒倒しそうな発想の転換であります。 これだけでも分かりますように、アメンホテプ4世の“アマルナ革命”は徹底的なものでありました。 この“革命”は、彼の17年間に及ぶ治世を通じて実行に移されました。しかし、言い方を変えれば、“アマルナ革命”は、彼の17年間の治世を最後に途絶えてしまいます。“革命”は失敗でした。 失敗の理由はいくつか有ります。 このようにして、アマルナ革命政権はアケナテンの死後間もなくしてガタガタになってしまいました。元々この“革命”は、極度のワンマンタイプであったアケナテンだからこそ出来た事でもあり、彼の死後までこれを維持する事は不可能だったのです。 出来たばかりの都・テル=エル=アマルナは廃され、首都は古都・メンフィスへと再び移されました。また、「アテンの生きた似姿」という意味の名の幼王・ツタンカーテンは、皆さんにも馴染みの深いツタンカーメン(「アメンの生きた似姿」)という名に改名させられます。 余談でありますが、このツタンカーメンの墓の発見と発掘に際して、関係者やその近親者が20人以上も急死したために、「発掘者は“ファラオの呪い”に殺されたのだ」…などという噂話が囁かれたりしました。 特筆すべきなのがこの王朝の第3代ファラオ・ラメス(ラムセス)2世の治世(紀元前1290〜24年頃)で、この時、エジプトは新王国時代の2度目のピークと言うべき繁栄を迎えたのでありました。 しかし、せっかく訪れたこのピークも、長くは続きません。いくら優れた君主が現れようとも、既にエジプトは国全体が病んでしまっていたのです。いや、老衰していたと言うべきでありましょうか。 ……以上で古代エジプト王朝の変遷についての話を終わります。次回は古代エジプトの文化についてお話する事にしましょう。(次回へ続く) |
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10月9日(水) 歴史学(一般教養) |
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※過去の講義のレジュメはこちら 今回も前回に引き続き、古代エジプト王朝の歴史について、述べてゆきましょう。前回は古王国時代の終焉まで見届けましたので、今日はその続きから始めます。 古王国時代における最後の王朝・第6王朝が崩壊した後のエジプトは、一転して群雄割拠の状態に置かれます。古代のエジプトは、元々からして地方分権の傾向が強かったため、ファラオの力が衰えると、たちまち“先祖返り”が起こってしまうというわけです。 ちなみに、この時期にも一応ファラオは存在していたのですが、多分に名目的な存在であり、実権はほとんど無かったと思われます。つまりは、エジプトという“箱”と、ファラオという“看板”はありますが、中はグチャグチャの状態と言うわけであります。 ……さて、このような極度の混乱期(第7、8王朝時代)が10数年続いた後、今度は上エジプトに2つの王朝が立つ、“南北朝時代”が90年ほど続きます。(第9、10王朝と第11王朝) 中王国時代のエジプトは首都をテーベに置き、歴代のファラオたちは古王国時代のような中央集権国家を再び建設すべく、内政・外征に力を尽くします。しかし、中間期に権力の旨味を知ってしまった地方の実力者たちの抵抗は厳しく、暗殺の憂き目に遭ったファラオもいたようであります。 しかし、中王国・エジプトの盛期は短いものとなってしまいました。紀元前19世紀に入り、以前のような官僚制中央集権国家が成立したまでは良かったのですが、無能なファラオが後継者となった際に、権力を宰相などの官僚に牛耳られるというパターンまで再現されてしまったのです。 これから250年弱続く第二中間期は、エジプト統一王朝の誕生以来1300年余りにして、初の異民族王朝が成立した時代であり、エジプト人にとっては屈辱にまみれた時代でもあります。 被支配民族になる屈辱を受けたエジプト人が立ち上がるのは紀元前1570〜50年頃で、旧都テーベに成立していたエジプト人の地方政権(第17王朝)が、エジプト解放を旗印に独立戦争を開始。次第にヒクソスを圧倒して、最後はパレスティナにまで遠征して、これを滅亡にまで追い込みます。 これ以後のエジプトは新王国時代という事になります。この時代は、古代エジプト史の中で最も語るべき部分の多いところでもありますので、これは次回に多めに時間を取ってじっくりお話したいと思います。では、また次回に…(次回へ続く) |
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10月7日(月) 歴史学(一般教養) |
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※過去の講義のレジュメはこちら
さて、この少し前にお話したメソポタミアの歴史では、「攻め易くて守り難い地形ゆえに、侵略と王朝交代が多い」…というのが特徴でした。 そんなエジプトに、部族国家を統合した統一王朝が初めて誕生したのは紀元前3100〜3000年頃。上エジプトの北辺にあるテュニスという都市を首都にしたのでテュニス朝とも呼ばれます。 そして紀元前27世紀半ば、第3王朝成立とほぼ時を同じくして、首都が下エジプトの大都市・メンフィスに移転されます。これをもって古王国時代の到来とします。 この時代におけるファラオの強大な権力を文字通り天下に知らしめているのが、ファラオ1人ごとに建造された巨大なピラミッドの数々であります。 余談ですが、我々の貧困な想像力では、「ピラミッド建築」と聞くと真っ先に、「重労働を強いられる奴隷が、厳しい役人にムチ打たれている」様子を思い浮かべてしまったりしますが、これは、誤解を受けて文献を残した歴史家の著述を読んで更に誤解をした作家諸氏の過失であります。 ……さて、このようにファラオが権力を一身に集めて栄華を誇った古王国時代のエジプトですが、徐々にファラオを取り巻く状況は変化して行きます。 |
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10月2日(水) 歴史学(一般教養) |
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※過去の講義のレジュメはこちら 今回からしばし舞台を変えまして、古代エジプトの歴史についてのお話をお送りする事にします。 さて、エジプトは、周囲を砂漠地帯に囲まれた極めて少雨の乾燥地帯でありながら、古代を通じて小麦の穀倉地帯として大いに栄えた文明エリア…という、世界でも極めて特殊な地域であります。 ──その理由はただ1つ。ここは古代ギリシアの歴史家・ヘロドトスの遺した、余りにも有名な一節をもって説明する事にしましょう。 「エジプトはナイルの賜物である」 赤道直下、現在のウガンダ南部を水源とする全長約6700kmの大河・ナイル川。古代エジプトの歴史は、この川の下流域・約1200kmを舞台にして展開されました。 このナイル川の特徴は、何と言っても年に1回下流域に発生する、緩やかで大規模な氾濫であります。 話しついでに、エジプトの独特の農法を説明しておきましょう。 こんな、奇跡としか言いようの無い恵まれた環境の中で、エジプト人たちは自らの文明を作り上げていったのでありました。 そうして“エジプト人”となった人々は、ナイル下流域の中でも、主に2つのエリアに集住するようになりました。 この2つのエリアでそれぞれ文化が発達し、やがて紀元前3500年頃にはノモスと呼ばれる部族国家があちこちに誕生します。ノモスはエジプト全体で40程度あったと言われ、それぞれに首長という統治者を持っていました。ノモス時代は、メソポタミアで言うところの、ウルクやウルなどの都市国家の時代です。 ……というわけで、次回からは古代エジプトの王朝史に突入して行きます。カリキュラムの都合もあり、しばらくは比較的まったりと進行していく予定です。どうぞ宜しく。(次回へ続く) |
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9月30日(月) 歴史学(一般教養) |
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※過去の講義のレジュメはこちら 前回は、メソポタミア文明の誕生からウル第3王朝滅亡までの歴史と、その当時の人たちの生活実態についてお話しました。今日はその続きという事になります。 最後のシュメール統一国家であるウル第3王朝の滅亡後、メソポタミアは一種の戦国時代となります。 しかし、この膠着した状況の中で密かに力を蓄え、新しい時代の担い手となるべく表舞台にその姿を現した1つの国がありました。それがあの古代バビロニア王国であります。 そのハンムラビ王の統治については、大量に残された当時の文献資料によって、かなり細かい部分まで窺い知る事が出来ます。 まずは1つ目。今で言う民事訴訟に関する命令書であります。
この命令書から少なくとも2つの事が分かります。 次に挙げるのは、役人の不祥事についての2枚の命令書です。
役人の不始末は、為政者にとっては4000年前でも頭を痛める問題であった事だったようであります。 最後にもう1通。こんな命令書もあります。
ここまで来ると、王の仕事ではなくて町内会長の仕事であります。 ……とまぁこのように、ハンムラビ王時代のバビロニア王国は、極めて安定した状態でメソポタミアに君臨していたようでありますが、やはりこの時代の行政の充実振りを示す材料として忘れてはならないのは、『ハンムラビ法典』でありましょう。 …さて、この他、『ハンムラビ法典』に収録された法律を大雑把に挙げて見ますと、殺人・傷害・窃盗・誘拐・強盗に関する刑法の他、結婚と持参金・離婚と財産分与・相続・養子縁組と廃嫡・姦通などについて定めた民法に相当するもの、兵士の権利と義務についての法律、土地の譲渡・賃借についての法律、金銭の債務・債権についての法律、賃金の規定を定めた労働基準法的なもの、奴隷に関する法律など、まさに微に入り細に入り、であります。 |