「社会学講座」アーカイブ(世界史・1)

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講義一覧

11/1  歴史学(一般教養) 「学校で教えたい世界史」(19) 第2章:オリエント(13)〜アケメネス朝ペルシアの建国と発展
10/30 歴史学(一般教養) 「学校で教えたい世界史」(18) 
第2章:オリエント(12)〜4王国の分立

10/28 歴史学(一般教養) 「学校で教えたい世界史」(17)
 第2章:オリエント(11)〜アッシリア帝国
10/23 
歴史学(一般教養) 「学校で教えたい世界史」(16) 第2章:オリエント(10)〜シリアとパレスティナ《続》
10/21 
歴史学(一般教養) 「学校で教えたい世界史」(15) 第2章:オリエント(9)〜シリアとパレスティナ
10/16 
歴史学(一般教養) 「学校で教えたい世界史」(14) 第2章:オリエント(8)〜ヒッタイト、ミタンニ、カッシート
10/14 
歴史学(一般教養) 「学校で教えたい世界史」(13) 第2章:オリエント(7)〜古代エジプト文化
10/11 
歴史学(一般教養) 「学校で教えたい世界史」(12) 第2章:オリエント(6)〜古代エジプト王朝の変遷《続々》
10/9 
歴史学(一般教養) 「学校で教えたい世界史」(11) 第2章:オリエント(5)〜古代エジプト王朝の変遷《続》
10/7 
歴史学(一般教養) 「学校で教えたい世界史」(10) 第2章:オリエント(4)〜古代エジプト王朝の変遷
10/2 
歴史学(一般教養) 「学校で教えたい世界史」(9) 第2章:オリエント(3)〜エジプト文明の誕生
9/30 
歴史学(一般教養) 「学校で教えたい世界史」(8) 第2章:オリエント(2)〜古代バビロニア王国
9/27 
歴史学(一般教養) 「学校で教えたい世界史」(7) 第2章:オリエント(1)〜メソポタミア文明の誕生
9/23 歴史学(一般教養) 「学校で教えたい世界史」(6)
 インターミッション1〜偉大なる発見者たちの苦悩(後編)
9/20 歴史学(一般教養) 「学校で教えたい世界史」(5)
 インターミッション1〜偉大なる発見者たちの苦悩(前編)
9/16 歴史学(一般教養) 「学校で教えたい世界史」(4
 第1章:先史時代(4)〜文明の誕生まで
9/13 歴史学(一般教養) 「学校で教えたい世界史」(3)
 第1章:先史時代(3)〜猿人から新人まで
9/9  歴史学(一般教養) 「学校で教えたい世界史」(2)
 第1章:先史時代(2)〜人類誕生)
9/4  歴史学(一般教養)「学校で教えたい世界史」(1)
 第1章:先史時代(1)〜人類以前)

7/19 歴史学(一般教養)「短期集中企画・駒木博士の歴史覚え書き(4・終)」
7/17 歴史学(一般教養)「短期集中企画・駒木博士の歴史覚え書き(3)」

7/14 
歴史学(一般教養)「短期集中企画・駒木博士の歴史覚え書き(2)」
7/9  
歴史学(一般教養)「短期集中企画・駒木博士の歴史覚え書き(1)」

 

11月1日(金) 歴史学(一般教養)
「学校で教えたい世界史」(19)
第2章:オリエント(13)〜
アケメネス朝ペルシアの建国と発展

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第1回第2回第3回第4回(以上第1章)/第5回第6回(以上インターミッション1)/第7回第8回第9回第10回第11回第12回第13回第14回第15回第16回第17回第18回


 9月の末から13回にわたってお話を続けてきました古代オリエント史でありますが、今回で一応の区切りとなります。また、これを機にこれまでのレジュメを通して閲覧して頂き、より歴史全体に対する理解を深めて頂けると幸いであります。

 さて今日は、最終的に古代オリエント世界を統一することになる、アケメネス朝ペルシア帝国(王国)の建国からそのオリエント統一までのお話をしてゆきたいと思います。

 最近はあまり“ペルシア”という名前を使わなくなりましたが、この言葉は古代から現代に至るまで、現在のイラン地方を示す地名として使われていました。
 この“ペルシア”という地名が使われ始めた正確な年代の確定は難しいところですが、紀元前9世紀頃のアッシリアの記録から、それまで“アンシャン”と呼ばれていたイラン地方を指す言葉として、新たに“パルスア”という固有名詞が登場します。恐らくはこれが“ペルシア”の語源になったのでありましょう。
 そしてこのペルシアは、紀元前8世紀頃にはアッシリアの侵攻を受けて属国化し、その後は、前回までの講義でも述べました通り、新興国家・メディア王国の属国となります。紀元前670〜660年頃には後の王朝の基礎となるイラン人の王家が成立したと推測がなされていますが、当時はまだ地方政権の一君主に過ぎなかったはずであります。

 この無名同然の地方政権が、東の中華帝国と並ぶ世界を代表する巨大国家にまで成長したきっかけを作ったのは、キュロス2世という王が歴史の表舞台に現れた時でありました。

 古代ギリシアの歴史家・ヘロドトスの残した記録を信じるならば、キュロスは当時ペルシアの宗主国であったメディアの王家の血を引いているそうであります。以下、彼にまつわるエピソードについてしばらく時間を取ってお話しましょう。
 彼の母は、メディア王国の王女であったところを、父王が彼女に関する不吉な夢を見たとの理由で追放同然にペルシア王家に嫁がされ、そこで王妃となった人物でありました。その第一子がキュロスというわけです。悪い表現を恐れず言えば、キュロスは生まれながらにして“捨て子の落とし子”という難儀な宿命を背負ってこの世に現れた事になります。
 そしてまた、キュロスが産まれてからも受難は続きます。「娘の産んだ子がメディアを滅ぼす」という不吉な夢を見たとの理由で、本国からキュロス暗殺の命を受けた人物が派遣されるに至ったのであります。
 この危機的場面は幸いにも、キュロス暗殺命令を受けたメディア王の側近・ハルパゴスがその実行を躊躇い、密かにとある羊飼いの夫婦──先に赤子を亡くしたばかりの──にキュロスと赤子の亡骸を交換させ、キュロスを殺したと欺いたために最悪の事態には至りませんでした。しかし、幼年期のキュロスは自分自身の素性を知らないまま、ただの牧童として育ってゆく事になったのでありました。

 それから10年の年月が経ちました。
 羊飼いの息子として育ったキュロス少年は、成長するに連れて、明らかに非凡なその才能を隠すところなく発揮し始めます。その姿は、羊飼いと言うよりも王者に相応しいものであったと言われています。
 キュロスの噂は瞬く間にペルシアやメディアの王家の知るところとなり、調査の結果、彼が殺されずに済んだペルシアの王子であることが判明しました。年月が問題を解決させたのでしょうか、ここに至ってメディア王もキュロスの助命と王子への復籍を容認し、ここにペルシアの王太子・キュロスが誕生したのでありました。その後、キュロスの父にしてペルシア王であったカンビュセス1世が亡くなり、キュロスは遂に王座に就きますこれがキュロス2世(在位:《ペルシア王として》紀元前559〜《アケメネス朝ペルシアの王として》紀元前550〜530)であります。

 ペルシア王となったキュロス2世は即位後から、因縁深き宗主国・メディア王国の打倒を画策し、着々と準備を重ねてゆきました。
 メディア王国と同盟関係にありながら、その国力に危機感を抱いていたカルデア王国との協調関係を水面下で密なものとし、更にはメディア王国からも精鋭部隊のヘッド・ハンディングに成功します。
 この精鋭部隊の隊長こそが、赤子のキュロスの命を助けた、王の側近ことハルパゴスその人でありました。彼はキュロスの生存が明らかとなった際、王の命に背いた罰として、我が子を殺され、しかもその肉を我が子の肉と知らずに食わされるというエゲツない目に遭っており、密かに復讐の機会を探っていたのでありました。
 かくして紀元前550年、当時オリエント最強を誇ったメディア王国は、キュロス2世率いるペルシアによって滅ぼされることとなります。メディアの領土は全てペルシアに併合され、現在のアルメニアからイラン、アフガニスタン西端に至る巨大な領土を持つ“新生”ペルシアが建国されました。この新しいペルシアの事を、これ以後に建国される複数の“ペルシア”と名付けられた国と区別するためにアケメネス朝ペルシアと称します。これは、元々のペルシア王家の伝説上の創始者の名がアケメネスといったところに由来しています。
 その後、キュロス2世率いるアケメネス朝ペルシアが次々とオリエントの諸国家を征服していったのは、前回の講義で述べた通りであります。紀元前547年にはリディア王国を、紀元前539年にはカルデア王国を滅ぼして、これらの領土を併合していますキュロス2世がアケメネス朝の基礎を築いたのは疑いの無いところでありましょう。

 そんなキュロス2世の30年に及ぶ治世は、戦いに次ぐ戦いで占められたようであります。主な国を滅ぼしたとはいえ、オリエントには未だペルシアを宗主国として認めない小国が多数存在していたのです。そしてまたその最期も、ペルシアに歯向かう遊牧民との戦争において、王自ら勇敢に戦った末の戦死と言われています。
 こう言いますと、さもキュロスは花よりも血の臭いを好む残忍な王のように思えてしまいますが、その人柄は非常に温厚で情に厚い人であったとされています。一度矛先を交えた国であったとしても、征服した相手の王には極めて寛大な態度で接し、カルデアの元の王が亡くなった際には国葬をもって遇したと言いますから大したものであります。勿論、そうする事で被征服民を懐柔する狙いもあったでありましょうが、彼の戦死後に反乱らしい反乱が起きていない事実を見ると、キュロス2世が王として魅力的な人物であった事は確信を持って良さそうです。

 キュロス2世が死んだ後は、既にバビロニアの太守として実地で帝王学を学んでいた長男・カンビュセスが即位してカンビュセス2世(在位:紀元前530〜522)となります。当時のペルシアでは長男には自分の父親の名を授けるという伝統があり、そのため、キュロス2世の父親の名を譲り受ける事になったのでありました。
 カンビュセスは、その短い治世の中でアフリカ地方の征服とその経営に力を注ぎました。中でも古代エジプト王国を征服(紀元前525年)し、支配した事は前回の講義で述べた通りであります。
 彼は遠征を失敗させたり、エジプトの旧支配者層への配慮を損ねたために、必要以上にその評を貶められていますが、実際のところは先代・キュロス2世の政治方針を踏襲した、それなりに優秀な人物であったようであります。これは、彼が治世の大半において本拠地を留守にしていたにも関わらず、全国的な支配に揺らぎが無かったことでも明らかであります。
 カンビュセスは紀元前522年、彼の弟・パルディヤの反乱の報に接し、急遽本拠地に帰還する途中で客死します。カンビュセスを非難する者たちは、エジプトの神聖な牛を殺した祟りだと言いますが、今ではカンビュセスがその牛を殺した事さえも事実と異なると判っています。当然の事ながら、彼の死因は病死と考えるのが妥当でありましょう。

 さて、王弟の反乱という国家の一大事に、肝心の王を失ったペルシアは、これまでの安定した統治から一転、大混乱となりました。こういう時には血統よりも実力がモノを言う社会になるのは世の必定でありまして、この時も王座を手に入れたのは王弟・パルディヤではなく、先王カンビュセス2世から見れば曽祖父の弟の4代孫という遠縁にあったダレイオス1世(在位:紀元前522〜486)でありました。
 ダレイオスは、王位継承権を持つパルディヤを“既に先王・カンビュセスに歯向かい殺されていたパルディヤの名を騙る者”として、王位継承者ではなく叛徒であると宣言、半年の戦いの末に彼を破り、王座を半ば強奪する形で王位に就きます。分かる人だけ分かるように言いますとエヴァ3号機を使徒とみなして殲滅を命じた碇ゲンドウみたいな事をしたわけであります。
 このようなダレイオスの“王位簒奪”を、各地の実力者が納得出来るはずなどありません。彼らはそれぞれ王を自称して、反・ダレイオスの兵を挙げるところとなりました。しかし力に勝るダレイオス1世は、1年の内にその全てを鎮圧し、その支配を確固たるものにします。この辺りはまさに“格の差”と言うに相応しいものでありまして、事実、この後のダレイオスは並みの王位簒奪者に似合わない類稀な政治的センスを発揮して、アケメネス朝ペルシアの黄金時代を演出する事となったのでありました。

 そんなダレイオス1世の行った治績の中で最も有名なものが、王都スサ(現在のペルシア湾岸・イラン・イラク国境付近の都市)に鎮座するダレイオスに全ての権力が集約する中央集権体制の確立であります。彼は、それ以前に栄えた大国であるアッシリアやメディアの制度を参考にしつつ、独自の支配を進めていったのであります。
 ダレイオスは、即位後自ら征服活動を行って広めた広大な領土──トラキア(ギリシア東部のエーゲ海沿岸一帯)からインダス川西岸に至るまで──を治めるため、領地を20以上の州に分割してそれぞれをサトラップと呼ばれた知事に統治させました(サトラップ制)。実はカンビュセスの代までは実現できなかった全国からの徴税制度がダレイオスの代に実現するのですが、それもこの支配制度の確立と無関係ではないと思われます。
 しかもサトラップが二心を抱いた場合の用心として、“王の目”“王の耳”と呼ばれた監督制度・スパイ制度や、“王の道”と呼ばれる駅伝通信制度を完備させて万全を期しました。鉄壁の支配であります。
 そしてまた、この支配を支えた強固な軍隊も特筆すべきものであります。中でもダレイオス親衛隊“不死の1万人隊”は長年無敵を誇った精鋭部隊でありました。

 ところで、ダレイオスの時代には、イラン地方発祥の宗教・ゾロアスター教の普及が進みました。
 この宗教は、紀元前12世紀頃にゾロアスターを創始者に始まったものでありまして、善神“アフラ=マズダ”と悪神“アーリマン”の対立をテーマとしたもので、他の宗教に先立って、いわゆる“最後の審判”の思想を導入した事でも知られています。
 ゾロアスター教はこの後も存続し、やがてはペルシア地方のみならず中国にまで流布されてゆくこととなります。この宗教に関しては、また別の機会に述べることになるでしょう。

 最後に、古代ペルシアの文字についても、少々のエピソードをお話しておきましょう。
 古代ペルシアの文字は、メソポタミア文明のそれと同様の楔形文字であります。しかも、このペルシア語の解読によって他の楔形文字を用いた言語が解読できるようになったために、この時代の言語学研究の中でも最重要の位置付けが為されています。
 このペルシア語解読の先鞭をつけたのは、ドイツの高校教師・グローテフェントでありました。彼は、ペルシア王宮で発見された碑文を、ササン朝時代(226〜651年)のペルシアで使われた言語と同様の文法であると見抜き、その上でパズルを解くかのように楔形文字をアルファベット化してペルシア語13文字の解読に成功したのでありました。発見された碑文が非常に限定されていた事を考えると、これでも奇跡に近い偉業であります。
 グローテフェントに続いたのが、言語学者にしてイギリス陸軍将校であったローリンソンで、彼は赴任先のペルシアで、高さ120mの断崖に刻まれた巨大な碑文──古代ペルシア語のみならず、エラム語とアッシリア語も対訳で刻まれていたロゼッタストーン的なもの──を発見し、上官の理解を得て軍務の傍らに研究を始めます。この碑文は、その地名からベヒストゥーン碑文と名付けられました。
 ローリンソンは、中世のイスラム教徒ですら破壊を断念したと言う断崖絶壁に命綱も無しでよじ登り、少しずつその碑文を写し取って解読に挑みます。そして彼はペルシア語の完全解読に成功し、後のエラム語やアッシリア語、更には他の楔形文字言語の解読に大きく貢献する事になったのでありました。

 ──このようにして、古代オリエント世界はアケメネス朝ペルシアの手によって完全統一が成されました。これにて古代オリエントの歴史は一応の終幕となります。
 ただ、この鉄壁の支配を誇ったペルシア帝国も、ダレイオス1世の晩年にはギリシア遠征(=ペルシア戦争)に失敗し、更にダレイオスの死後には優れた後継者に恵まれなかったため、国勢は徐々に先細りになっていってしまいます。そして建国から220年経った紀元前330年には、マケドニア生まれの英雄・アレクサンドロス(アレキサンダー)大王の前に滅ぼされることになるのでありますが、それについてはまた主客を入れ替えて、マケドニアとアレクサンドロスの歴史を語る時に詳しくお話することに致しましょう。

 
 さて、次回からは舞台を地中海世界に移しまして、ギリシアとローマの歴史を中心に述べてゆく事になります。ますます面白さを増す歴史の物語にどうぞご期待下さい。 (次回に続く


 今回をもちまして、この「学校で教えたい世界史」は、しばらくのお休みを頂きます。今のところ、再開は11月の第4週辺りを予定しておりますが、詳しくはまたお伝え致します。なお、再開後のこの歴史学講義は、週1〜2度の実施にペースを落として実施する予定です。受講生の皆さんには御迷惑をおかけしますが、悪しからずご了承下さい。 

 


 

10月30日(水) 歴史学(一般教養)
「学校で教えたい世界史」(18)
第2章:オリエント(12)〜
4王国の分立

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 前回は、メソポタミア辺境の小王国から、短期間ながらオリエントの覇者にまで昇り詰めたアッシリア帝国の歴史を概観してみました。
 そして今回は、このアッシリア帝国を倒し、更にはその後のオリエント世界に割拠した4つの王国について述べることにしましょう。
 その4つの王国とは、まず1つ目がメソポタミアの東、イラン地方からやって来た騎馬民族がまとまって出来上がったメディア王国。次に2つ目が、ハンムラビ王の時代以来、メソポタミア地方の中心地として栄えたバビロニアを首都に持つカルデア王国。3つ目が小アジアの西端からアナトリア半島全体に勢力を広げていったリディア王国。そして最後の4つ目が、衰えつつも依然として存在感を発揮していた古代エジプト王国であります。
 以上、これら4つの王国がアッシリア以後のオリエント世界を支配する事になったのでありました。

 それではこれより、これら4つの国それぞれの歴史について、簡単ながらお話してゆくことにしましょう。

 まずはメディア王国から。この国では文書を遺す習慣が無く、未だに余り詳しい事が分かっていないのでありますが、可能な範囲でお話します。

 この国は先に述べた通り、元々はメソポタミアとは縁の薄いイラン系の騎馬民族たちが統合して出来たものですが、このメディアの民族そのものは紀元前10世紀頃から存在したと言われています。
 但し、この民族は紀元前7世紀に至るまで他民族の支配下にあり、アッシリアが強大化した後は、その属領になっていたりもしました。
 しかし、アッシリアのオリエント支配にほころびが見え始めた紀元前7世紀後半には事実上の独立を果たし、周囲の民族を臣従させるなどして勢力を伸ばしてゆきました。ちなみに、この時メディアの支配下に置かれていた民族の中に、後にこの国を滅ぼして最終的なオリエントの覇者になるペルシア民族がいました。
 そして前回にもお話した通り、メディア王国は同時期に建国したカルデア王国と同盟を結び、アッシリア帝国を滅ぼして更にその勢いを増してゆきます。最盛期(紀元前6世紀前半)には、その領土は現在のアルメニアからイランの大部分、そしてアフガニスタンの西端に至る広大なものとなりました。今回採り上げた4つの王国の中では飛びぬけて広い領土を有していた事になります。

 しかし、最後にはこの広い領土が逆に仇となりました。要は目立ち過ぎたわけです。

 紀元前550年、この国の強さに恐れを抱くようになった同盟国カルデアが、当時急速に力をつけつつあったペルシアに働きかけ、メディアを挟み撃ちにします
 その結果、戦いはペルシアの圧勝に終わり、メディア王国は呆気なく滅亡。新たに興ったペルシア帝国に吸収されることとなったのでありました。

 
 次にカルデア王国であります。本拠地がバビロニアであった事から、ハンムラビ王のバビロニア王朝“古バビロニア王国”とし、この国“新バビロニア王国”とする呼び方もあります。
 この国は、古バビロニア王国時代からの住人・アムル人と、シリアの歴史で紹介したアラム人の2つの民族によって構成されていました。この講義の第14回で述べた、カッシート族を経てエラム人の手に渡ったメソポタミアを、異民族から奪回したのもこの人々です。

 このバビロニア一帯、紀元前8世紀終盤〜7世紀初頭のアッシリア全盛期には、当時のオリエントの他地域と同じように、その大帝国の支配下に置かれ、厳しい占領政策を敷かれていました。しかし、先程から述べていますように、紀元前7世紀アッシリアの混乱に乗じて独立を回復すると、間もなくしてメディアと同盟を結び、これを滅ぼします。この時、カルデア王国はオリエントを代表する国となったのでありました。

 カルデア王国の領土は、基本的にはメソポタミア中・南部の限られた範囲に留まっていましたが、この国の最盛期であるネブカドネザル2世王(在位:紀元前605〜562年)の時代には、エジプトを破り、ユダ王国を滅亡させるなどして、その勢力圏を一気に押し広げました第16回で述べた“バビロン捕囚”が実施されたのもこの時です。

 また、ネブカドネザル2世の時代には、様々な建築物が築かれた事でも知られています。その中でも、“世界七不思議”の1つと言われた“バビロンの空中庭園”が非常に有名であります。
 この空中庭園、今風に言えば、ビルの屋上に出来た庭付き植物園でありました。ホームシックに悩んでいた、同盟国・メディア王国から嫁いで来た王女のために、王がメディアから植物を取り寄せて作らせたと言われています。血なまぐさい戦争や強制移住をやった王にも、一片のロマンチシズムはあったと見えます。

 しかし、このカルデア王国もネブカドネザル2世の死後は急速に衰退します。経済力を背景にした豪商たちが政治にも口出しするようになって、国が乱れたとも言われています。
 その最期の時は、紀元前539年に訪れました。カルデア王国は、かつての同盟国・ペルシア帝国によって占領され、その11年前にカルデアの陰謀の前に滅びたメディア王国(これも元々は同盟国ですが)と同じ運命を辿る事になったのでありました。


 そして3番目に採り上げるのは、アナトリア半島、つまり現在のトルコ共和国がある地域を支配したリディア王国であります。
 リディアの人々は、かつてアナトリア半島に栄えた、あのヒッタイト族の末裔と言われており、半島の西端でひっそりと暮らしていました。が、紀元前7世紀、アッシリアの衰退や異民族(アジア系騎馬民族のスキタイ人など)の侵入などによりアナトリア半島が大混乱に陥ると、これに乗じて領土を一気に広げ、大規模な王国を建設するに至ったのでありました。

 このリディア王国は、その地理的条件からギリシアとの交流・交易があり商業が盛んで、更には貴金属が採取出来たこともあり、世界で初めて鋳造貨幣を発行した国として知られています。これらの貨幣、始めは金と銀の合金で、後には100%金貨の貨幣も発行しています。

 ただ、リディア王国は他の国のように国力や歴史的なバックボーンに乏しく、対外的には終始受身の姿勢を強いられました。建国間もなくから東隣のメディア王国からの侵攻を受け、長年の防衛戦争を強いられました。
 この戦争の時は、戦闘中に、当時は不吉の兆しと言われていた日食が起こり、休戦→和解を果たし命拾いをしましたが、そのメディアがペルシアに滅ぼされると、万事休す。このリディアも紀元前546年にペルシアに滅ぼされる事となったのでありました。


 最後にエジプトについても少し述べておきましょう。
 エジプトについては、第10回から第12回までの3回でお話しましたので繰り返して詳述しませんが、紀元前8〜6世紀は、古代エジプト王国の中でも“末期王朝”と呼ばれる衰退期にあたりました。
 そのため、アッシリアが侵攻してきた時もその勢いに抗えず、一時期は下エジプトが征服される憂き目に遭ってしまいました。しかし、さすがのアッシリアも本拠から遠くはなれたエジプトの支配は楽でなかったらしく、その支配は永続せずに間もなく独立を回復しています。アッシリアが滅亡する寸前には同盟を結んでさえいました。
 アッシリアの滅亡後も、長年、独立だけは維持しつつオリエント4強の一角を占め続けたのですが、この国もまた、ペルシア帝国の餌食となって、紀元前525年には属州化されてしまうのです。


 ……と、ひどく駆け足でありましたが、アッシリア滅亡後に栄えた4つの王国の歴史についてお話をしました。
 いよいよ次回は古代オリエント史のフィナーレです。この4つの王国を猛烈な勢いで飲み込んでいった新興国・アケメネス朝ペルシア王国についてお話をします。それでは、また次回に。(次回へ続く) 

 


 

10月28日(月) 歴史学(一般教養)
「学校で教えたい世界史」(17)
第2章:オリエント(11)〜
アッシリア帝国

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 前回までの数回は、バビロニア帝国滅亡後(紀元前16世紀以降)のメソポタミア文明地域の様子を地域ごとに分けて述べてゆきました。
 そして今回は、それらの地域史の中でたびたび登場した、アッシリアという国の歴史についてお話したいと思います。紀元前7世紀に、短期間ながらオリエントの完全統一を達成したという大帝国であります。

 このアッシリアは、メソポタミアの北の辺境・ティグリス川上流域にある都市・アッシュルを中心とする国で、その歴史は殊のほか深く、紀元前21世紀に建国されています。
 しかし紀元前21世紀と言えば、メソポタミアではウル第3王朝が全盛の時代。そのため、建国当時のアッシリアは、南にある強大な領域国家の様子を恐々窺いつつ、半ば属国のような立場で生き続ける弱小国でありました。
 ただ、アッシュルという都市は、メソポタミア、シリア・パレスティナ、アナトリア半島の主要都市との交易をするのに有利な地理条件にあったため、建国当初は商業で栄えたそうであります。特にアッシリア産の錫はアナトリア半島との交易で莫大な利益を生み、ヒッタイトがアナトリアで力を増してアッシリア人を追放するまでの数百年間、大量の銀を本国にもたらしたと記録に残っています。

 このようなアッシリアの“下積み”時代は約1000年にも及ぶのですが、その間にも時には優れた君主が現れて、存在感をアピールしています。
 その中でも特に興味深いエピソードが残されているのは、かのハンムラビ王の時代にバビロニア王国と丁丁発止の駆け引きを繰り広げたと言う傑物・シャムシ=アダド1世という王についてであります。
 ただ、この王様を有名にしているのは、政治や外交の表舞台での活躍よりも、本来なら目の届かないところでで発揮されていた、自分の息子に対する過保護と“教育パパ”振りでありました。

 中でも特に王の手を煩わせたのが、2人いた息子の内の次男坊、つまりは第2王子で、王からこの“馬鹿息子”に対する手紙が山のように発掘されています。
 例えば、いざ他国の王家から王女を后に迎えようとした時などは特に大変でありました。やれ「結納金は幾らが良い」という手紙を送ったり、かと思えば、すぐにその額の倍以上の支度金を王のポケットマネーから捻出するわ、挙句の果てには関係者への祝儀まで送り届けさせる始末
 で、その第2王子が結婚した後も全く成長の跡が窺えないと悟るや、次から次へと叱咤激励の手紙を送ってハッパをかけます。

 お前の兄は戦場に出て敵将を討ち取ったのだ。しかしお前は、日がな女たちに囲まれて収まりかえっているではないか。お前も勇気を出して戦場に出て“男”となれ。兄のように名声を得てみよ。

 しかし、兄と比較されてスネてしまったのか、この王子の行状は一向に良くならなりません。そこで王は更に手紙を書いてよこしたのでありました。

 お前はいつまで私が手を引いて歩かせねばならんのだ。お前はまだ子供か。一人前の男ではなかったのか。ヒゲも生えていない若造とでも言うのか。いつまでお前は仕事を怠けるつもりか。お前の兄が大群を率いて戦場に馳せ参じる様を見ているはずだ。お前はせめて宮殿や家事の管理ぐらいやってみろ。

 ……まるでテキストサイト管理人に送りつけられた中傷メールのような罵詈雑言の羅列であります。が、南方では着々とハンムラビ王による征服活動が進んでいるという当時の周辺事情を考えると、このシャムシ=アダド1世王の焦りも痛い程よく分かるものであります。
 そして結局、シャムシ=アダド1世が没した後のアッシリアは、瞬く間にハンムラビ王に攻められ、敢え無く属国化されてしまったのでありました。
 この後もアッシリアの苦難の歴史は続き、バビロニアが滅んだ後も、すぐさま強大化したミタンニ王国によって、やはり属国となる事を強いられてしまうのです。

 その流れがやや変わり始めるのは、紀元前14世紀半ばの事アッシュール=ウバリト1世という王は、この国をミタンニの属国から独立させ、国力増強と軍国化を開始します。ここから、後のアッシリアの強大な軍事力が培われる事になるのであります。
 ただし、かと言って、そう簡単に状況が一変したわけではありません。それからの約500年間は、戦勝によって領土を増やしたかと思えば、あっという間にその領土を失って後退する…という、一進一退の時代が続くのです。売れない演歌歌手の半生記を見ているかのような停滞振りですが、ここままアッシリアの歴史が終わらないのは、冒頭で述べた通りであります。

 紀元前9世紀、いよいよオリエント世界にアッシリア帝国の時代が到来したのでありました──

 後にオリエントの覇者となるアッシリアの、そのベースとなる部分を築き上げた王は、アッシュルナシルパル2世(在位:紀元前883〜859)“アッシリアの狼”という異名を与えられた、その石像に遺された鷲鼻で冷徹な表情が今なお見る者の恐怖をそそる専制君主であります。
 アッシュルナシルパル2世が行ったのは、強化・整備された軍隊による征服活動と、その占領地に対する徹底的な恐怖政治でありました。
 彼の手によって占領された国々の被征服民たちは、住み慣れた土地から引き離されて、この時期に建設されたばかりの新首都・カルフー(現在のイラクにあるニムルード)に強制移住させられました。故国への愛着を奪い、反抗のモチベーションを奪おうとする厳しい政策であります。これは、前回イスラエル王国の歴史を扱った時に採り上げた通りであります。
 更に厳しかったのが、反乱を起こした占領地やその首謀者達に対する処罰でした。女・子供に至るまで皆殺しにするのは当たり前。処刑された遺体の皮を剥ぎ、それを城壁に貼り付けていったり、人柱や首柱が築かれたり、生きたまま業火の中へ放り込む…といったような残虐な処刑が当たり前のように行われたようであります。幸運にして生かされた人々も、奴隷の身分に落とされたり、目や鼻や耳をくり抜かれたり削ぎ落とされたりしたのでありました。
 そして、この世界史上類を見ない激烈な占領政策は、これ以後、アッシリアに代々引き継がれていく伝統的な政策になってゆきました。

 その後は、ごく一時期内政が混乱した事もありましたが、アッシリアは紀元前8世紀以降、飛躍的な発展を遂げてゆく事になります。厳しい占領政策にも関わらず、各地での反乱は絶えませんでしたが、そのことごとくを力で捻じ伏せて、被征服民に付け入る隙を与えませんでした。
 そんなアッシリアがいよいよ絶頂を極めるのが、ティグラト=ピレセル3世(在位:紀元前744〜727)の治世で、この時代には、これまでの占領政策以外にも、大規模な行政改革軍制改革が実施されています。
 アッシリアは元々から複数宰相制官僚による行政組織綿密に組織化された軍隊を持つ、完成度の高い中央集権国家だったのですが、この時期になると、広がり過ぎた領土を効率良く治めるためにも諸々の改革が必要だったようであります。特に軍制改革では初めて異民族出身の兵士が採用され、この国のグローバル化が進んでいた事を窺わせてくれます。(もっとも、この軍隊の多国籍化は軍のまとまりを欠く原因となり、後のアッシリア衰退の一因となるのでありますが……)
 そして、この偉大な先王の“遺産”を引き継いだ子や孫たちは、バビロニアやイスラエル、更にはエジプトといった古代オリエント史を代表する強国らを次々と飲み込んでゆき、エサルハッドン王(在位:紀元前680〜669)の時代には、遂にオリエント世界の大半を統一する事に成功します(紀元前671年)。なお、その息子であり後継者であるアッシュール=バニパル王は、膨大な粘土板文書を納めた大図書館を建設した事で有名です。

 こうして栄華を極めたアッシリア大帝国でありましたが、その絶頂を深く味わう暇も無く、間もなくして衰退への道を辿ってゆくことになります
 衰退の理由は様々ありますが、まずは厳格な占領政策にも関わらず、国内各地で反乱が頻発した事が挙げられます。反逆者にどれだけ残虐な罰を与えようと、それは被制服民のアッシリアに対する敵愾心を煽るだけの意味しか持たなかったのであります。
 そしてそこへ新興勢力がメソポタミアに現れた事がアッシリアを更に窮地に追い込みました。折悪しく、王室の後継者争いが揉めていて国内が不一致状態であったのも大きく影響したようです。また、先ほど述べた軍制改革のもたらした統率力の減退もそれに拍車をかけました。
 日本の平家一門豊臣家の時もそうでしたが、どれだけ天下を極めようと、一旦ベクトルが衰退の方向へ向かい出すと、その転落のスピードは極めて速いものであります。アッシリアの場合は友好国や忠実な属国を確保する作業を完全に怠っていましたので、特にその傾向が強くなったようであります。
 そんなアッシリアの滅亡は紀元前609年。その3年前に首都ニネヴェ(カルフーから2度遷都されている)が陥落しており、事実上はそこでアッシリアは国家としての機能が破壊されています。アッシリアを倒したのは、バビロニアに建設されたカルデア王国と、イランから西へと進撃してきた新興国・メディア王国の連合軍であります。
 アッシリア帝国は、天下統一からわずか60年での滅亡となりました。1500年の歴史を持つ国としては余りにも呆気ない最期と言えるでしょう。

 アッシリアの滅亡後のオリエントは、先ほど挙げたカルデアとメディアを含めた4つの大国が割拠する“四国時代”に突入します。その時代のあらましについては、また次回に譲る事としましょう。次回へ続く

 


 

10月23日(水) 歴史学(一般教養)
「学校で教えたい世界史」(16)
第2章:オリエント(10)〜
シリアとパレスティナ《続》

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 今回は、前回時間オーバーでお話しきれなかった古代イスラエル王国の歴史の続きをお送りします。

 
 紀元前930年頃、約30年の治世を終えて世を去ったソロモン王の後を子が継いでからは、イスラエル王国の政情は急速に安定を失って、わずか5年後には南北に分裂してしまいます。以後、北部をイスラエル王国、南部をユダ王国と呼びます。
 この分裂劇のそもそもの原因は、ソロモンの治世に課せられた重税に対する民衆の不満が爆発した事でありました。ソロモンの時代に耐えられた事が耐えられなくなったという事は、恐らく新王には人望が欠如していたようであります。ソロモンは政治的には凡庸ながらも人柄だけは優れていたようでありますが、子供には人柄さえも遺伝しなかったのでしょう。

 そんな分裂後のイスラエル・ユダ両王国は、政変が繰り返されて次々と王朝が交代したイスラエルと、ダヴィデの子孫によって比較的安定した政権が維持されたユダとで対照的な歴史を歩んで行きます。
 特にこの頃のイスラエルの混乱振りは目も当てられない程でありました。王室の内輪揉め、フェニキアから嫁いだ后が持ち込んだ宗教とパレスティナ土着の宗教との対立、軍隊による国王暗殺など、国家が傾くような出来事がのべつまくなしに発生している印象さえあります。酷い時には7日で滅んだ王朝もあったそうですから、現代のアフガンやカンボジアも真っ青といったところでありましょう。
 そして、そんな当時のメソポタミアは食うか食われるかの戦国の世。国内の統治すらままならないダメ国家がいつまでも存在出来るわけがありません紀元前722年、この頃ダムを突き破った大洪水のように猛烈な勢いで侵略戦争を繰り広げていたアッシリアが、遂にイスラエル王国をその毒牙にかけてしまいました
 このアッシリアは、征服した土地の民族の一部を本国へ強制移住を課し、替わりに本国からアッシリア人を植民させるという政策を採っていたため、イスラエルは国だけでなく民族丸ごと蹂躙されるという屈辱を味わう事になりました。
 実はこの時の強制移住と植民が、やがてキリスト教成立の際に深く関わる事になりますので、頭の片隅にでも置いていただけると幸いであります。

 さて一方のユダ王国は、イスラエル王国が滅亡し、更に南へと迫り来るアッシリアのプレッシャーを感じつつも、しばしの安泰を謳歌していました。
 が、紀元前7世紀終期にアッシリアが滅び、代わってエジプトやバビロニアに誕生したカルデア王国がユダ王国に激しく詰め寄ると、さしもの王国も急速に衰え始めます。それから間もなくしてダヴィデ王以来の首都・イェルサレムがカルデア軍によって陥落し、ユダ王国も遂に滅亡します(紀元前586年)。
 そして征服されたユダの人々(=ユダヤ人)は、140年前のイスラエル王国民と同じように強制移住させられ、遠く離れたバビロンで民族ごとでまとまった生活を強いられます。これが有名な“バビロン捕囚”と呼ばれるものであります。

 そんな屈辱の日々の中で、バビロンで暮らすユダヤ人の間で1つの宗教が確立されます。それがあのユダヤ教であります。
 既にご存知のように、ヘブライ人にはモーセの時代から土着の信仰のようなものが存在していました。そして紀元前7世紀後半のヨシュア王の時代に、ヤハウェという神を信じる一神教が確立されてもいたのですが、それがこの時期に、「神に救われるのはユダヤ人だけである」という“選民思想”などの重要な教義が加わったのであります。強制移住と敵地・バビロンでの集団生活という特殊なシチュエーションが、民族の団結心と屈辱感を呼び起こし、それが民族独自の宗教に対する信仰心を強める方向へ昇華したのでありましょう。
 そんな悲劇の民・ユダヤ人も、数十年後にカルデアを滅ぼしたペルシアの王によって帰国を許され、その頃にはすっかり浸透したユダヤ教と共に故郷へと戻って行きます。間もなくして首都・イェルサレムは再建されて、そこにユダヤ教の神殿も建てられました。
 その後、紀元前5世紀頃にはユダヤ教の教典・旧約聖書も編纂され、ユダヤ人とその宗教はますます栄える事になるのですが、この繁栄もまた永遠ではありませんでした。彼らのその後の苦難の歴史については、また別に語る機会がある事でしょう。

 …さて、今日は短めですがここまで。次回は、これまでも度々名前が挙がっています、古代オリエントを代表する軍事超大国・アッシリア帝国についてお話をしたいと思います。(次回へ続く

 


 

10月21日(月) 歴史学(一般教養)
「学校で教えたい世界史」(15)
第2章:オリエント(9)〜
シリアとパレスティナ

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 前回はエジプトから舞台と時間を戻しまして、ハンムラビ王時代の後のメソポタミアについてお話をしましたが、今回はやや舞台を変えて、シリア、パレスティナ地方の大まかな地域史をお送りします。

 まず、この地方の古代史の担い手になった人々を紹介しますと、彼らはバビロニア王国を建てたアムル人と同じく、メソポタミアとアラビア砂漠の中間地帯からやって来たセム系の民族でありました。

 その中でも、アムル人に続くセム系民族の第2陣となったのがカナーン人と呼ばれる民族であり、更に彼らの内で、現在のレバノン周辺でいくつかの都市国家を建設した人々をまとめてフェニキア人と言います。
 彼らは紀元前2500年頃、つまりまだメソポタミアに領域国家が誕生していない頃からレバノンに住み着いていたようで、早い内から古代エジプト王朝と交流をしていたとの記録も残っています。どうやら隠れた“先進民族”だったようであります。

 フェニキアの人々は他の地域と異なり、最後まで統一国家を形成しませんでした。しかしそれでも、レバノンの各地それも海沿いに、シドン、ティルス、ウガリットなど多くの都市国家を建設し、大規模な海洋貿易や、イベリア半島や北アフリカ地方への植民活動で大きな実績を挙げていました。世界史上でもかなり早い時期に分類される海洋民族であります。
 そんな彼らが扱った貿易品目は多岐に渡り、当時は極めて貴重とされた染料や、高級木材であるレバノンスギが特に有名でありました。
 そして海洋貿易や植民活動を営む以上、フェニキア人は航海術も極めて発達していました。大変信じ難い話ですが、何とこの当時にアフリカ大陸を一周したという記録すら残っているのであります。
 …この“怪挙”に関しては紀元前5世紀の歴史家・ヘロドトスですら疑いを持っていたようです。が、その報告の中に、南半球では太陽が北中した…という、体験せねば絶対に思いつかないような貴重なレポートが記されており、皮肉な事にもこれが決め手となって、このアフリカ大陸一周は真実であると認定されています。
 それにしてもヴァスコ=ダ=ガマのインド航路開発から2000年以上前にこの偉業。古代人の才能の豊かさにはつくづく舌を巻いてしまいます。

 また、フェニキア人は独自の文字・フェニキア文字を持っていました。
 これは、古代エジプトの象形文字を簡素化したシナイ文字と呼ばれたものの改良バージョンで、22種類の文字からなるアルファベットの原型でありました。これに母音を追加されたものがギリシア文字となり、それが現行のアルファベット26文字へと発展してゆく事になります。つまり、現在使われている言語の多くはフェニキア文字をルーツとしているわけで、それを考えると我々はフェニキア人に足を向けて寝られないやら、「よくも受験勉強をヤヤコシくしてくれたな、この野郎!」とイチャモンをつけたいやら、複雑な心境に陥ってしまうものであります。

 フェニキアは統一国家を持っていませんでしたので、その歴史の終わりもかなり曖昧ではありますが、紀元前9世紀頃からアッシリア(この国に関しては次々回に述べます)の圧力を受けて衰退し、やがてペルシアなどの大国に吸収されてゆく事になります。しかし、この民族が建設した植民地はその後も繁栄を続け、これからも世界史に深く関わってくる事になります。


 さて、このフェニキア人の住んでいたエリアの東、現在のシリアがある地域には、同じくセム系のアラム人が都市国家群を形成していました。当時の都市国家で有名なものには、現在でもその名が残っているダマスクスなどが挙げられます。
 彼らもフェニキア人と同様に商業を盛んに行う民族でありましたが、内陸に住んでいた関係上、陸上貿易が中心だったようです。
 文字に関してもフェニキア人と同様に独自のアラム語アラム文字を持っていました。そしてこの言語は、陸上貿易の物産と共にメソポタミアからペルシア(イラン)方面へ広く流布し、紀元前6〜1世紀頃までこの地方の国際言語として大活躍しました。
 アラム人の都市国家は、これもやはりアッシリアの侵攻にさらされて、やがて滅亡の時を迎えますが、アラム民族はその後もメソポタミアの各地に散らばり、亡国の商業民族としてたくましく生き抜いていったようであります。何と言いますか、商売人の生命力の強さといったら、古代から現代まで変化が無いものでありますね。


 そしてこの時代・地方にまつわる歴史で一番最後に紹介するのが、パレスティナ地方に住んでいたヘブライ人──後のユダヤ人、現在のイスラエル人の祖先にあたる人々です。

 彼らのルーツもまた、セム系民族が原住地から北へと移動してきた人々なのですが、その構成はやや複雑になっています。
 まずベースとなるのは、フェニキア人と同系統のカナーン人です。実はカナーン人はレバノン(フェニキア)よりもこちらの方が“本場”で、長い間パレスティナ地方はそのものズバリ、“カナーン”と呼ばれていたようです。
 そしてそこへ、同じくセム系の民族の中でもエジプトに定住していた人々・ヘブライ族が、ある時期(紀元前1250年頃と推定)突然パレスティナへ逃れ、艱難辛苦の末に、当地のカナーン人と合流します。この出来事が旧約聖書で言うところの“出エジプト”、映画『十戒』でも有名な、預言者モーセに率いられた人々の逃避行の物語であります。

 このエピソードは非常に有名で、旧約聖書でも特に大きく扱われている出来事なのでありますが、歴史学の観点から見た場合、その実態は“非常に微妙”なモノであったと言わざるを得ません
 どうやら新王国エジプトの第18王朝(トトメス3世、アメンホテプ4世《アケナテン》、ツタンカーメンらの治世)から第19王朝(ラムセス2世らの治世)へ移行した際に、それまでエジプトに住んでいたヘブライ族への対応が非常に厳しいものとなり、その結果へブライ族がパレスティナへ移住をしたという事は確かなようです。
 しかし、モーセという人物の実在からして不明ですし、その“出エジプト”そのものの規模も、それほど大きなものではなかったのではないか…というのが妥当な“線”とのことであります。

 …と、何はともあれ、こうして2つの民族が合流して新しい民族が誕生しました。これがヘブライ人という事になります。
 ただし、当時のパレスティナにはヘブライ人の他にも色々な民族が存在していました。中でも、ヒッタイトを滅ぼした“海の民”の一派と思われるペリシテ人は、鉄の鋳造技術を身に付けていたこともあり、ヘブライ人にとっては宿敵でもあり、貴重な交易相手でもあったようです。
 余談ですが、さっきから頻繁に使用している“パレスティナ”という名称は、“ペリシテ人の土地”という意味であるそうです。それを考えると、全くペリシテ人と系統の違うアラブ民族が“パレスティナの解放”を求めているというのは、奇妙と言えば奇妙でありますね。ひょっとしたら“イスラエル(ヘブライ)に対抗する者”という意味で使用しているのかも分かりませんが……。

 こうして誕生したヘブライ人たちですが、始めの内は狭義の意味で言うところの国家を持たずに、士師という宗教指導者をリーダーとする緩やかな共同体だったようです。
 しかし紀元前11世紀後半、モーセの十戒を記した石板(とされるもの)を封印した“契約の箱”という神器をペリシテ人に強奪される事件(後に返却される)が発生し、この頃から民族全体を政治・軍事の両面から保護してくれるような王を待望する動きが高まります。指導者たちもこの動きを無視する事が出来ず、ほどなくして士師の推薦により王が擁立され、ヘブライ人による統一国家・イスラエル王国が成立します。(紀元前1020年)
 ところがこの時に擁立された王が“とんだ一杯食わせ者”。出来たばかりのイスラエルを私物化してしまったのでありました。
 と、ここで登場するのが、少なくとも名前だけは有名なダヴィデであります。伝承では牧人となっていますが、恐らくは有能な軍人で、大変な人気があったとされています。ダヴィデは始め、彼の人気を妬む王の魔手から逃れるために、ペリシテ人支配地へ亡命を強いられますが、やがて士師勢力を味方につけた上でクーデターを敢行イスラエル王国の2代目の王として君臨したのであります。

 ダヴィデは政治でも軍事でも有能な、まさに理想的な指導者で、結果的に彼の治世がイスラエル王国の全盛期に相当します。国内はまとまり、対外戦争により領土も拡大します。あのペリシテ人たちも、この頃にイスラエル王国へ吸収される事になります。また、後の聖地・イェルサレムが都に定められたのもこの頃です。 
 ただ、そんなダヴィデにも(悪い意味で)1つの醜聞が残っています。それは、とある軍人の妻に愛情を抱いてしまったダヴィデが、その軍人の上官に命じて、軍人を戦死が免れないような激しい戦闘に参加させて彼を死なせ、未亡人となった妻を自らのものとした…という話であります。伝承によると、この行為は神の怒りに触れ、やがて生まれた長子を神の力で死なせる羽目になった…ということであります。生々しい話ではありますが、どんな英雄も1人の人間である事を再確認させてくれる趣深いエピソードでもありますね。

 そのダヴィデは在位40年(紀元前1000〜960頃)で亡くなり、その後を次子・ソロモンが継ぎました。
 ソロモンは父・ダヴィデの遺産を引き継ぎ、まずまず無難な統治を行ったようであります。文献によると、戦車1400台、騎兵だけでも12000人と言う当時としては破格の軍事力を有していたとのことでありますから、当時の国力の豊かさが窺えます。
 しかし、だからといってソロモンが有能な王だったかと言えば、そうでもなかったようであります。極上の牛肉をソコソコ美味いステーキにすることくらい誰でも出来るのと同じで、彼は要するに親の遺産を食い潰しながら天寿を全うした幸せな人、という評価が妥当なようです。
 事実、ソロモンの没後、“遺産”を全て使い果たしたイスラエル王国の命運には俄かに暗雲がたちこめるようになってまいります

 ……予定の範囲までは進みませんでしたが、講義時間がオーバーしていますので今日はここまでとします。次回はイスラエル王国史の続きを述べます。(次回へ続く

 


 

10月16日(水) 歴史学(一般教養)
「学校で教えたい世界史」(14)
第2章:オリエント(8)〜ヒッタイト、ミタンニ、カッシート

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 前回で一応、古代エジプトの歴史については一段落ということで、今回からは再びメソポタミア地方の歴史についてお話してゆきましょう。
 このメソポタミアの歴史については、紀元前1600年頃、古代バビロニア王国が滅びるところまでお話しています。(記憶が薄れている人は第7回、第8回の講義を復習して下さい)
 しかし今回はやや時計の針を戻しまして、そのバビロニアを滅ぼしたヒッタイト王国(某大河少女マンガで有名ですね)や、そのヒッタイトと同時代にメソポタミアで栄えたミタンニ王国、カッシート人の王朝の衰亡について、やや駆け足で追いかけてみようと思います。

 ヒッタイトの人々がメソポタミアの歴史の中に姿を現すのは、紀元前20世紀頃とされています。彼らはアナトリア半島(現在のトルコ共和国)一帯を領土にして王国を形成しましたが、元々その周辺に住んでいたわけではないようです。

 これは、彼らが使っていた楔形文字(ヒッタイト語)が、シュメール人やセム系民族の使った文法ではなく、インド=ヨーロッパ系──インド、イラン、スラヴ、ギリシア、ラテンなどの各民族──の文法に極めて近い事が決め手となりました。
 ちなみに、ヒッタイト語解読の足がかりとなったのは、「パンを食い、水を飲む」という意味の短文でした。この短文は『パン』の部分だけが既に解読済みのシュメール単語で書かれており、そこから「『パン』と来りゃあ、次は『食う』だろう。んで、パンを食ったらノドが渇くから『水を飲む』だったりして」……などと手前勝手な推測をしてみたところ、なんとその推測が大当たりで、そこからこの言語がインド=ヨーロッパ系の文法だと判明し、全てのヒッタイト語解読が進んでいった…などという凄い話が残っています。
 ただ、このヒッタイト語を解読したフロズニーという学者はその後、また大胆な決め打ちを仮説としてギリシアの古語の解読に挑みましたが今度は大失敗。晩節を汚したまま寂しく世を去ったそうであります。

 そんなヒッタイト人の故地について、詳しい事は分かっていません。しかし、インド=ヨーロッパ語を使う民族の発祥の地現在の中央アジア〜ロシア南部周辺ではないかとされており、遥か昔の先祖はそこに住んでいたのではないかと思われます。
 で、そうしてアナトリア半島に定住を決め込んだヒッタイト人ですが、民族全体による統一国家に成長するのは紀元前17世紀に入ってからでありました。彼らは、当時まだメソポタミアでは全く普及していなかった製鉄技術を持ち、その技術がもたらした鉄製武器は絶大な威力を誇りました。
 ヒッタイトは、国家誕生から間もなくして古代バビロニア王国を滅ぼすなど、その勢力を急激に高めました。ただ、何故かバビロニアを支配する事無く彼らは撤退してしまい、メソポタミア統一はなりませんでした。更にはその後、国内でクーデターが頻発したり、近隣に敵対勢力が現れるようになり、今度は急速に衰微。紀元前1400年頃には一時滅亡同然の状態に陥ります。
 が、シュピルリウマ1世という国王の時代(紀元前1370〜36頃)にヒッタイトは息を吹き返します。彼は巧みな外交戦略を得意とし、後にお話するミタンニ王国との戦争でも、周辺国をまとめて同盟国にして戦いを有利に進めて勝利。ミタンニを事実上滅亡に追い込み、ヒッタイトはメソポタミア地方でも有数の強大国となります。
 そしてそれから後はエジプトとの関わりが深まりますかのラメス2世との間で争われたカデシュの戦いがありましたが、終戦後は平和外交がなされていたようであります。(ここでエジプト新王国時代と、この時代のメソポタミアがリンクする事を把握して下さい)

 …と、このように繁栄の時を謳歌していたヒッタイトですが、その最期は非常に呆気ないものでした。
 紀元前1200年頃、ギリシア地方ではドーリア人という北方民族の侵入があり、そのアオリを受けてギリシアから弾き出された諸民族“海の民”と呼ばれる)がオリエント地方へ一気に来襲したのであります。
 突然の異民族の来襲に対し、エジプトではこれを何とか食い止めることに成功しましたが、アナトリア半島のヒッタイトは為す術無く、津波のような民族移動に飲み込まれてしまったのでありました。ヒッタイトは忽然とメソポタミアから姿を消し、その歴史もそこで途絶えるのです。

 
 次にミタンニ王国についてお話しましょう。
 ミタンニ王国を構成していたのは、主にフルリ(フリ)という、セム系でもインド=ヨーロッパ系でもない系統不明の民族でありました。(参考書ではインド=ヨーロッパ系とされている場合がありますが、これは古い誤った学説であります)
 フルリ人は、ウル第3王朝の頃(紀元前2114〜2004年)からメソポタミア各地に散らばっていましたが、その内のメソポタミア北部に住んでいた人々がまとまり、紀元前1500年頃にその地に建国されたものがミタンニ王国だと思われます。
 ミタンニ王国については、その首都・ワシュガニの遺跡が未だ発見されていないために、その姿は隣国ヒッタイトや、王室同士で姻戚関係のあった新王国エジプトの文献資料から類推するしかなく、まだ謎の部分が多く残されています
 少ない史料の中から判明している歴史的事実を辿っていくと、彼らは戦車(馬車)を用いた戦法で紀元前1400年頃に全盛期を迎えたものの、その技術が他国に流出した事が命取りとなり、やがてヒッタイトによって滅亡に等しい大打撃を受けたという事が分かっています。

 
 そして最後に、バビロニアを中心としたメソポタミア南部を支配したカッシート人についてですが、これはミタンニ王国以上に詳しい事が判っていません。カッシート人が初めて文献に登場するのは、まだバビロニア王国が健在な紀元前1740年頃で、この時はバビロニアを攻撃するも、見事に撃退されています
 あとは、後の時代に残されたバビロニアの王名表から年代を類推してみますと、ヒッタイトが古代バビロニア王国を滅ぼして撤退した直後、紀元前1595年から約440年もの間、カッシート人はバビロニア王国の支配者としてその名を歴史に刻んでいます。新王国時代のエジプトとの国交もあったようですが、どちらかというと受動的な立場を強いられていた節もあります。元々が粗野な民族だったせいか、その辺の駆け引きはどうも上手くなかったようであります。
 最終的に彼らをバビロニアから駆逐したのは、遥か昔、ウル第3王朝の滅亡の一因ともなったエラム人でした。そしてそのエラム人も間もなくしてメソポタミア南部の現地勢力に一掃され、ようやくバビロニアはメソポタミアの人々の手に戻ります

 ……以上が、主に紀元前16世紀〜12世紀までのアナトリア半島〜メソポタミアの歴史でした。この後のメソポタミア地方は、建国から1000年以上の時を経て強大化したアッシリア帝国によって席捲される事になるのですが、これはまた後のお話です。
 次回は、これまであまり目を向けてこなかった、シリア、パレスティナ地方の諸国家・諸民族についてお話をしたいと思います。段々ややこしくなって来ますが、出来る事なら、各自で参考書を当たるなりして、混乱する事の無いようにして下さい。(次回へ続く

 


 

10月14日(月) 歴史学(一般教養)
「学校で教えたい世界史」(13)
第2章:オリエント(7)〜
古代エジプト
文化

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 さて、前回までで漸く古代エジプトの大まかな歴史を概説し終わりました。今回は短めに古代エジプトの文化について述べまして、この章におけるエジプトに関しては、これで一応の締めとしたいと思います。

 ではまず、古代エジプト社会と切っても切り離せない関係である宗教からお話してゆきましょう。

 前回の講義でも触れましたが、エジプトの宗教は典型的な多神教であります。まずは天地創造の神・アトゥムがいて、彼が大気の神・シューと湿気の女神・テフヌトを産み、更に彼らが大地の神・ゲブと天空の女神・ヌトを産んで……というようにたくさんの神々が生まれ、そこからギリシア神話のような役職別の神や、各都市の守護神などへと繋がる形になっています。
 そんな神々にはそれぞれの神にまつわる神話が作られ、文献として残されています。その中には、仕事のテリトリーを巡って神同士がギャンブルをし、しかもそれがイカサマで決着するという阿佐田哲也顔負けの香ばしい話もあり、その事実がまた、この時代の人々がギャンブルを愛好していたことを証明する格好の資料になっています。(事実、古代エジプトの遺跡からは、世界最古クラスのギャンブル道具が発掘されています)
 多くの神々の中でも、特に古代エジプト史に密接に関わる重要な神と言えば、やはり太陽の神・ラーと、大都市テーベの守護神・アメン(アモン)という事になります。これら2つの神が、ファラオの権威付けに利用された事は前回の講義でお話した通りであります。ちなみに、あのアケテナンが“創設”したアテン(アトン)一神教がありますが、これは一連の神話とは“別枠”でありました。

 あと、古代エジプトの文化に関わる神として忘れてはいけないのは、冥界の神・オシリスであります。
 この時代のエジプトには冥界、つまりは死後の世界の存在と人の魂の不死を信じる思想があり、それがミイラを作るという発想に繋がってゆきました。肉体を壊す事無くミイラを作っておくと死者の魂がそのミイラに舞い戻り、そこで弔いの儀式を受ける事で、その魂はオシリスの神となって永遠の不死を得る…という理屈だったようです。
 ただ、不死の魂はもれなく神になるという事もあり、ミイラ作りは元々はファラオの一族にのみ許された行為でありました。下々の者は神になるなど畏れ多いというわけであります。
 しかしこれも時代が経つにつれ制約は緩まり、まずは貴族に、そして新王国時代には一般市民にもミイラ作りが解禁されます。この頃には猫のミイラも作られたといいますから、文字通り猫も杓子もミイラ作りというわけであります。

 余談ですが、当時のミイラ作りについて、「エジプトはナイルの賜物」の名言で有名な歴史家・ヘロドトスが、詳細なレポートを残しています。
 何でも、当時のミイラ作り専門の業者が存在し、その作り方も予算別に3つの段階、つまりは松竹梅があったそうであります。金さえ積めば、体の形を維持したまま丁寧に内臓を取り除いて立派なミイラを作ってくれますが、最低の予算だと適当に脱水処理だけされて突き返されたそうです。正に地獄の沙汰も…という話であります。

 こうして人々は漏れなく不死の魂となる事が可能になったわけですが、一般市民にミイラが解放された頃から“冥界裁判”の思想が生まれます。どうやら「余りにも冥界に人が殺到するので、入口で数を間引いているに違いない」…という極めて現実的な発想が宗教の一思想に発展したようであります。
 しかし、せっかくミイラまで作って盛大に弔ったのに、冥界入口で間引かれてはたまったものではありませんので、人々は冥界裁判の指南書のようなものを作って、棺に入れたそうであります。この指南書に死者の安寧を祈る文を併せた物が“死者の書”であります。これは、かつてはピラミッドや、貴族のミイラを納めた棺に掘り込まれた祈祷文が原型になっていて、特にピラミッドの壁に刻まれた文章を“ピラミッドテキスト”と言います。

 
 ……さて、宗教の話はこれくらいにしまして、他の文化についても駆け足でお話してゆきましょう。

 これも以前の講義で述べましたが、この時代にはピラミッドスフィンクス、更には神殿などの巨大建造物が建てられました。この建造物の設計のために、測地術幾何学も発展したようです。
 は、現在のものに近い1年365日の太陽暦が使用されていました。これは別に天文学から来たわけではなく、ナイル川の氾濫がおよそ365日周期だったところから来たようです。ただ、うるう年の発想が無かったため、本来の太陽暦とはややズレが見られたようでありますが。
 文字はいわゆる象形文字から出発し、その形が簡略化されて行く中で独特の文字が生まれました。その文字は時代を経るに従っていくつかのパターンが生まれています。簡略化の進んでいないモノから順に、神聖文字(ヒエログリフ)神官文字(ヒエラティック)民衆文字(デモティック)です。元々の文字は神が与え賜うた物という発想があり、複雑なものほどグレードが高かったようです。
 この文字は長らく解読が不可能とされていたのですが、ナポレオンがエジプトに遠征した際に発見されたロゼッタストーン言語学者シャンポリオンが解読した結果、今ではエジプト文字は完全に解読が出来ています。ロゼッタストーンには神聖文字、民衆文字、そして先に解読されていた古代ギリシア文字の3種類の文字で同一の文章が記されておりギリシア文字からの対訳をする事で解読がなされたものでありました。
 そしてエジプトの文字と切っても切り離せない関係にあるのが、パピルスという草であります。
 パピルスはカヤツリグサ科の植物で、太さ3〜4cmの茎が1.5〜2mほど伸びた先に、細長い葉が茎の中心から巨大なマリモのような感じで生えています。この茎の皮を剥いで繊維状の短冊にした物を、石の台上に重ね合わせてハンマーなどで叩いてペシャンコにし、更にそれを乾燥させますと立派な紙の代用品が出来上がります。エジプトの文字は、この加工パピルス紙に顔料などで記されたものでした。
 このパピルスは丈夫で扱いやすいため、様々な用途に用いられたようです。時にはパピルスで小型船まで作っていたと言いますから、まさに万能植物でありました。エジプトはナイルの賜物。そしてエジプト文化はパピルスの賜物でありました。

 ……と、途中から酷く駆け足になりましたが、古代エジプトの文化はこれ位にしておきましょう。次回は再びメソポタミア文明に立ち戻り、群雄割拠の歴史を追いかけてゆくことにしたいと思います。(次回へ続く

 


 

10月11日(金) 歴史学(一般教養)
「学校で教えたい世界史」(12)
第2章:オリエント(6)〜
古代エジプト王朝の変遷《続々》

 ※過去の講義のレジュメはこちら
第1回第2回第3回第4回(以上第1章)/第5回第6回(以上インターミッション1)/第7回第8回第9回第10回第11回

 おことわり:講義中に付記する年号が、参考書や「世界史B用語集」に記されているものと異なる場合がありますが、これは別の資料を参考にして講義を行っているためです。
 歴史を把握するにあたり、この時代の年号はさほど重要ではありませんので、あくまで参考として把握して頂くようお願い申し上げます(駒木ハヤト)


 では、今回も古代エジプト王朝の変遷を追いかけてゆきたいと思います。

 さて、前回の講義でお話したように、異民族ヒクソスの侵入、そして約100年にも及ぶ支配を受けるという屈辱を味わったエジプト人ですが、実はこの経験は、彼らにとって大きな転機となったのでありました。

 といいますのも、被制服民となった屈辱感はその人々に色々な感情を呼び起こしますが、エジプト人の場合、これは幸いな事にナショナリズム的な愛国心・闘争心に昇華されたのであります。
 再び独立を勝ち取るために軍隊は増強され、また、ヒクソスがエジプトに持ち込んだ、戦車(馬で台車を引っ張る形のもの)や西アジアの新型兵器の技術も非常にプラスになりました。
 そして独立戦争と戦勝であります。これは実戦経験や溢れんばかりの自信と鉄壁のプライドという、決して金銀財宝では手に入れられない、それでいて非常に貴重なモノをもたらします。

 いつの間にか、恐らくは当事者たちも知らない間に、エジプトはオリエント最強クラスの軍事国家に成長していたのです。それは“黄金時代”と言って差し支えない輝かしい時代の始まりでありました。

 ヒクソスを撃退した(紀元前1552年ごろ)後、即ち第18王朝以降の古代エジプトを新王国時代と言いますが、この時代にほぼ共通したスタンスは、“最大の防御は攻撃なり”であります。
 決して積極的に侵略を仕掛けるわけではありませんが、敵対勢力が現れた場合は、相手の攻撃を待たずして先手、先手で攻めてゆきます。芽は出るなり摘み、杭は出過ぎる前に打つ。まさに機を見るにつけ敏でありました。時には東のメソポタミア地方へ、そしてまた時には南のヌビア(現在のスーダン、エチオピア方面)へと領土や勢力範囲を広げてゆきました。

 この機動的な対外戦略が可能になったのは、先に述べた強力な軍隊を持っているだけでなく、エジプト国内でのファラオの地位が堅固であったという事も大きかったようです。
 この新王国時代のファラオが中王国以前のそれと違うところは、従来の王としての権威に加え、“常勝将軍”というカリスマ的なステータスも手に入れていたことだと思われます。実は世の中、王の代わりはいくらでも作れるのでありますが、常勝将軍の代わりは作れないものであります。代わりが作れない以上は、部下たちは、その君主の下で精一杯の権力争いをする他なくなるのです。
 こうなれば、いくら官僚制社会が発達しようとも、遠征のためにファラオが首都テーベから離れようとも、王権は安泰です。宰相以下、王の側近や官僚たちは単なる王の下僕としての務めを粛々と果たすのみでありました。

 この新王国時代エジプトが1回目のピークを迎えたのは、第18王朝の第5代ファラオ・トトメス3世(在位:紀元前1490〜36頃)の時代でした。
 彼は幼少の時期こそ、共治王の母親に実権を握られていたものの、次第に自分に近しい人間を要職に引き込み、やがて女王の退位と共に親政を開始します。

 この若きファラオは、まず第一に優れた将軍でありました。シリア・パレスティナ地方へと兵を送り、これを次々と占領・植民地化してゆきます。それまでこの地方を勢力化に置いていたメソポタミア地方の強国たちも、時には黄金の戦車に乗って先陣を切って戦ったと言われるこのファラオの前には、一様に沈黙せざるを得ませんでした。
 結局、このトトメス3世の治世における遠征は17回にも及び、占領地域の支配は遂に磐石のものとなります

 ところで、この頃の文献には、当時のエジプト進出を裏付ける、少し面白いエピソードが残っています。
 エジプト軍がメソポタミアの大河・ユーフラテス川に到達した時の事です。エジプトの兵士は、その川の姿を見て仰天してしまいました。
 「か、川が逆流している!」
 ユーフラテス川はナイル川と逆に、北から南へと流れてゆく川です。それまでナイル川以外の川を知らなかったエジプト人にとって、その光景は信じられないものでありました。恐らく当時のエジプト兵は、初めて黒船を見た日本人、もしくは自分の恋人が実はニューハーフだった事を知らされた男のような衝撃を喰らったことでありましょう。

 話を戻します。この“常勝将軍”トトメス3世の第二の姿は、優れた政治家としての知性派ファラオとしてのそれでありました。
 大きく広がった領地に、それぞれ行政組織を敷き、植民地にまで官僚制を徹底させます。また、占領地の元支配者の子息(つまりは王子)を人質としてエジプトに連行し、そこでエジプト流帝王学を学ばせて、成長の折には故郷に返して総督に赴任させるという洒落た事までやってのけたようです。

 こうして、有形・無形様々なものを残して、トトメス3世はこの世を去ります。その後、散発的に支配地域で反乱が発生しますが、ほとんどの場合、それらは難なく鎮圧されました。それくらいトトメス3世が残したエジプト“帝国”の組織が頑丈だったのです。これが、後の世の歴史家たちが、彼を“古代エジプトのナポレオン”と称する由縁でもあります。いや、ひょっとしたら彼はナポレオンをも超える才能の持ち主だったかも分かりません。

 しかし、この世には全てにおいて完璧なものなど存在しないのも事実であります。そしてこの時の強固な王朝も、思わぬところから足元を掬われてしまいます。そのポイントは宗教にありました。 

 他の地方の古代王朝がそうであるように、古代のエジプトでも宗教は支配者と密接な関係を持っていました
 エジプトでは、例えば日本の邪馬台国のような神権政治──神のお告げを聞く神官が“神の意思”に従って政治を行う政治──は発達していませんでしたが、それでも“ファラオとは神の子である”という思想が完成されており、神を祀る事は立派な国家事業となっていたのです。
 ちなみに、今お話している新王国時代の宗教は、“アメン=ラー”信仰という、元々はテーベの守護神だったアメン(アモンとも言う)と、太陽神ラーが融合した神を奉るものでありました。そして“ファラオ=神の子”という公式に従いますと、アメン=ラー神は絶対的君主であるファラオ以上の存在でありますから、その祀られ方も自ずとグレードが上がってゆきます。
 この時代には、かつてのピラミッドに代わって神を祀るための大規模で豪華な神殿が建築され、ましてやその神殿を司る高位の神官ともなれば、その権力たるや行政面でファラオを支える宰相を遥かに凌ぐものとなります。
 いつしか神官勢力は、隙あらば国政をコントロールしかねない厄介な存在となっていたのです。

 しかしこの状況を、当のファラオが見過ごすわけがありません。歴代の政権では、神官人事を巡るファラオ派と反ファラオ派のせめぎ合いが絶えず起こり、遂には強硬な手段に打って出るファラオが現れました
 そのファラオ・第18王朝の10代目であるアメンホテプ4世(在位:紀元前1364〜47頃)神官勢力を退けるために実施した諸政策は、今では一括して“アマルナ革命”と呼ばれています。国家の最高権力者が行う“革命”とはおかしな話でありますが、しかし彼が強行したものは、確かに“革命”と呼ばれるに相応しいものでありました。

 このアメンホテプ4世が行った事績は、大雑把に言って2つに集約されます。

 まず1つ目新宗教・太陽神アテン信仰の創始であります。なんと、ファラオ権力と密接に繋がる宗教を自ら立ち上げてしまったというわけです。アメン=ラー神の力を弱めるのではなく、更に強い力を持つ宗教を作る事で、結果的にアメン=ラー神官の権力を弱めようとしたのです。コロンブスやコペルニクスが卒倒しそうな発想の転換であります。
 そして2つ目の政策首都テーベからの遷都でした。アメンホテプ4世は、テーベから150km程離れた所に新都・テル=エル=アマルナを建設します。神殿の遠くに首都機能を移転して、アメン=ラー神官たちの発言力を削ごうと言うのがその狙いでありました。支配者が、その権力を強めるために遷都を行う事は度々見受けられますが、それでもやはり大変なエネルギーを要する仕事でありましょう。

 これだけでも分かりますように、アメンホテプ4世の“アマルナ革命”は徹底的なものでありました。
 それは、新しい神・アテンの神殿に飾られた彫像や絵画にも見てとれます。この神殿には、これまでの神殿美術とは全く趣を異とするセンスの作品が飾られ、嫌が応にも“脱・アメン=ラー”を人々の心に植え付けたのでありました。
 このような、アテン信仰にちなんだ彫刻や絵画などの美術的作品“アマルナ美術”と呼ばれ、他の時代の美術と別物として分類されています。それほど独特だったわけです。
 また、アメンホテプ4世は、新宗教立ち上げと遷都にあたり、自身の名前をアメンホテプ(「アメン神は満足し給う」の意)からアケナテン(アクエンアテン、イクナートンとも呼ぶ。「アテン神にとって有用な者」)に改名する事までやってのけます。これは正にアメン=ラー神との完全な決別の意思表明であり、テーベに残された神官勢力に対する宣戦布告でありました。事実、この後アケナテンはアテン神を唯一の神に据えて、アメン=ラー神を含む他の神を抹殺しようとまで考えたようです。

 この“革命”は、彼の17年間に及ぶ治世を通じて実行に移されました。しかし、言い方を変えれば、“アマルナ革命”は、彼の17年間の治世を最後に途絶えてしまいます。“革命”は失敗でした

 失敗の理由はいくつか有ります
 中でも大きかったのは、他の神を否定する一神教であるアテン信仰が、エジプトの人々に馴染まなかった事でしょう。今風に言えば、アケナテン政権の支持率が低迷してしまったわけです。
 また、アケナテン王の側近たちの能力の低さも“革命”の足を引っ張る原因となりました。このファラオの側近になろうとする取り巻きは、“革命”のドサクサに紛れて権力のオコボレを頂こうとする連中ばかりだったのです。

 このようにして、アマルナ革命政権はアケナテンの死後間もなくしてガタガタになってしまいました。元々この“革命”は、極度のワンマンタイプであったアケナテンだからこそ出来た事でもあり、彼の死後までこれを維持する事は不可能だったのです。
 しかも、アケナテンの後を継いだのは、わずか9歳の幼王ツタンカーテン。どう考えても彼にこの混乱を収拾する能力がない事は明らかでありました。
 ファラオの側近たちは、ここで断腸の思いの中、一つの決断を下します。それは神官勢力と妥協をしてアメン=ラー信仰を復活させる代わりに、ファラオの権力を高いレヴェルで維持する事でありました。 

 出来たばかりの都・テル=エル=アマルナは廃され、首都は古都・メンフィスへと再び移されました。また、「アテンの生きた似姿」という意味の名の幼王・ツタンカーテンは、皆さんにも馴染みの深いツタンカーメン(「アメンの生きた似姿」)という名に改名させられます
 そしてこのツタンカーメンは、18歳でこの世を去ります。ファラオの権力が強い新王国時代を通じて、最も力の弱かったファラオであることは間違いありません。それ故に、彼は墓らしい墓すら作ってもらえず、死後の世界にまで不遇をかこつ事になりました。そして、我々現代人が彼の“墓”を完全な形で発掘する事が出来たのは、正にそれ故でした。盗掘者たちは、「まさか、こんな所に王の墓などあるまい」と考えたのであります。
 無名で無力な幼きファラオが、無名で無力だったがために、数千年後の世界で最も有名なファラオになる。何とも後味の悪い皮肉であります。

 余談でありますが、このツタンカーメンの墓の発見と発掘に際して、関係者やその近親者が20人以上も急死したために、「発掘者は“ファラオの呪い”に殺されたのだ」…などという噂話が囁かれたりしました。
 しかし、考古学や歴史学の関係者で、この“呪い”を信じる人はいません。何故なら、このツタンカーメン王墓の発掘に最も力を注いでいたカーター氏他、多くの人物が天寿を全うしたからであります。
 夢(?)の無い話ではありますが、現実とはそういうものであります。そして、その厳しい現実の中から嘘のような本当の話を引き出すのが、歴史学の醍醐味とも言えるのであります。
 
 ……さて、メンフィスで再スタートを切ったファラオ政権でしたが、課題は8月31日の小学生のように山積みでありました。西アジアの植民地がメソポタミア各国によって脅やかされていたのです。下手をすれば、決壊したダムの如く、メソポタミア国家の軍団がエジプトを襲う事もあり得たのです。
 しかし、ここからエジプトは見事に立ち直ります。ツタンカーメンの死から約30年経った紀元前1304年頃から始まった第19王朝になってからは、強いファラオが対外戦争を繰り返すという、新王国時代の理想的なファラオの姿が復活します。

 特筆すべきなのがこの王朝の第3代ファラオ・ラメス(ラムセス)2世の治世(紀元前1290〜24年頃)で、この時、エジプトは新王国時代の2度目のピークと言うべき繁栄を迎えたのでありました。
 そして、このラメス2世の治世のトピックと言えるのが、シリア地方の植民地を巡って、メソポタミアの強国であるヒッタイトと争われた“カデシュの戦い”であります。
 この戦いは、ヒッタイト側によるスパイを使った錯乱作戦や、それによって苦境に陥ったラメス2世が果敢にも自ら先頭に立って脱出を果たしたエピソードなど、古代文明戦史の中でも指折りの“名勝負”といえるものでありました。(結果は引き分け)

 しかし、せっかく訪れたこのピークも、長くは続きません。いくら優れた君主が現れようとも、既にエジプトは国全体が病んでしまっていたのです。いや、老衰していたと言うべきでありましょうか。
 ラメス2世が身罷ってから間もなくして、エジプトの衰退を象徴する出来事が起こります。世界史上初のストライキでありました。王墓建築にあたっていた作業員たちが給料の遅配に業を煮やして、作業をボイコットしたのです。原因宰相を筆頭とする官僚たちの汚職だったといいますから、処置ナシです。エジプト王朝は、中身から腐り始めていたというわけでありました。
 それから腐敗はファラオ権力の衰退にまで及び、紀元前1070年頃から始まる第21王朝からは、末期王朝時代という文字通りの末期的な時代を迎えます。紀元前950年頃には西隣の国・リビアに王朝を乗っ取られ、以後はアフリカ、メソポタミア諸国家による征服王朝の合間に、細々とエジプト人王朝が成立するような有様となったのでありました。
 そして紀元前341年ペルシア王・アルタクセルクセス3世による占領(=第31王朝の成立)を最後に、エジプト人によるエジプトという国は長い長い中断と相成りますエジプトが再び独立を果たすのは、それから約2300年後の1952年を待たなくてはなりません。

 ……以上で古代エジプト王朝の変遷についての話を終わります。次回は古代エジプトの文化についてお話する事にしましょう。(次回へ続く

 


 

10月9日(水) 歴史学(一般教養)
「学校で教えたい世界史」(11)
第2章:オリエント(5)〜
古代エジプト王朝の変遷《続》

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第1回第2回第3回第4回(以上第1章)/第5回第6回(以上インターミッション1)/第7回第8回第9回第10回

 今回も前回に引き続き、古代エジプト王朝の歴史について、述べてゆきましょう。前回は古王国時代の終焉まで見届けましたので、今日はその続きから始めます。

 古王国時代における最後の王朝・第6王朝が崩壊した後のエジプトは、一転して群雄割拠の状態に置かれます。古代のエジプトは、元々からして地方分権の傾向が強かったため、ファラオの力が衰えると、たちまち“先祖返り”が起こってしまうというわけです。
 特に社会の混乱を来たしたのが首都・メンフィス周辺でした。マンガ『北斗の拳』真っ青の無秩序状態に異常気象が加わり、深刻な食糧不足となって、たちまち都は壊滅状態となりました。長年栄華を誇ったメンフィスも、これをきっかけに一度古代エジプト史の舞台からフェード・アウトしてゆきます。

 ちなみに、この時期にも一応ファラオは存在していたのですが、多分に名目的な存在であり、実権はほとんど無かったと思われます。つまりは、エジプトという“箱”と、ファラオという“看板”はありますが、中はグチャグチャの状態と言うわけであります。
 今後も歴史を語る上で重要な事なので今述べておきますが、この時のエジプトのように、1つの国に1人の君主がいるからといって、それが必ずしも安定した1つの国ではない…というケースは結構多いものであります。身近な例を挙げれば、戦国時代の日本などもその典型例と言えるでありましょう。
 このように、一見立派な国が実はハリボテ同然で、事実上は多くの小国が分立しているだけ…という話は、これからの歴史でも多々見受けられますので、よく記憶しておいて下さい。「え? この時代のこの国って、そんな状態だったの?」…などと驚かれる事もあることでしょう。

 ……さて、このような極度の混乱期(第7、8王朝時代)が10数年続いた後、今度は上エジプトに2つの王朝が立つ、“南北朝時代”が90年ほど続きます。(第9、10王朝と第11王朝)
 その中で、上エジプトのテーベを都とする第11王朝が次第に力を伸ばし、紀元前2040年頃には“南北朝”を統一。約100年の混乱期にピリオドを打ちました。ここから中王国時代の始まりとし、それまでの混乱期を“第一中間期”と呼ぶのが通例です。

 中王国時代のエジプトは首都をテーベに置き、歴代のファラオたちは古王国時代のような中央集権国家を再び建設すべく、内政・外征に力を尽くします。しかし、中間期に権力の旨味を知ってしまった地方の実力者たちの抵抗は厳しく、暗殺の憂き目に遭ったファラオもいたようであります。
 それでも、時が経つにつれてファラオの権力は強まってゆきます。それを証拠に、この時代にも、大きさ・完成度共にかつてより見劣りする物ながら、多くのピラミッドが建設されています。ただ、古王国時代前半のように強大な権力を持つまでには至りませんでした。これは、古王国時代は死後の世界で神となる資格を持つのはファラオだけだったのに対し、中王国期にはそれが他の有力者にも“解放”されている事からもよく分かるところであります。

 しかし、中王国・エジプトの盛期は短いものとなってしまいました。紀元前19世紀に入り、以前のような官僚制中央集権国家が成立したまでは良かったのですが、無能なファラオが後継者となった際に、権力を宰相などの官僚に牛耳られるというパターンまで再現されてしまったのです。
 結局、紀元前18世紀に入って間もなく、再びエジプトは混乱期に入ります。中王国時代(第11〜12王朝)が終わり、第二中間期と呼ばれる時代に突入します。

 これから250年弱続く第二中間期は、エジプト統一王朝の誕生以来1300年余りにして、初の異民族王朝が成立した時代であり、エジプト人にとっては屈辱にまみれた時代でもあります。
 この時代の“客演主役”となった民族ヒクソスといい、現在のヨルダン辺りに住んでいた人々が、エジプトの混乱に乗じて侵入したものです。彼らは、初めは傭兵などとしてエジプト社会の内部に入り込み、やがて紀元前1650年頃、エジプト人王朝の衰退を見てクーデターを起こし、最後には下エジプトを拠点として国全体を乗っ取ってしまいましたプロレスで言えば、チャンピオンベルトが他団体のレスラーに奪われるようなものであります。
 こうしてヒクソスは、古代エジプト王朝史の第15、16王朝に名を残すことになります。ただし、彼らのエジプト支配は、それほど強力な中央集権が完成できたわけではなく、後の世の封建制度のように、地方のエジプト人有力者に土地を与えて自治させ、ファラオはその有力者に睨みを効かせる程度に留まったようです。それでも、ヒクソスのファラオは元々が傭兵の大親分がみたいなものですから、なかなかその“睨み”は眼光鋭いものであったようでありますが……。

 被支配民族になる屈辱を受けたエジプト人が立ち上がるのは紀元前1570〜50年頃で、旧都テーベに成立していたエジプト人の地方政権(第17王朝)が、エジプト解放を旗印に独立戦争を開始。次第にヒクソスを圧倒して、最後はパレスティナにまで遠征して、これを滅亡にまで追い込みます
 これは先のプロレスの喩えで言うなら、ベルトを取り返すだけではなく、団体そのものまで潰してしまうといったところでありましょうか。まぁ何はともあれ、こうして初めてエジプト人を脅かしたアジアの異民族は歴史上から消え去り、再びエジプト人によるエジプト社会が復活することになりました

 これ以後のエジプトは新王国時代という事になります。この時代は、古代エジプト史の中で最も語るべき部分の多いところでもありますので、これは次回に多めに時間を取ってじっくりお話したいと思います。では、また次回に…(次回へ続く) 

 


 

10月7日(月) 歴史学(一般教養)
「学校で教えたい世界史」(10)
第2章:オリエント(4)〜
古代エジプト王朝の変遷

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 →第1回第2回第3回第4回(以上第1章)/第5回第6回(以上インターミッション1)/第7回第8回第9回


 前回から古代エジプト文明の歴史に突入していますが、今日はその2回目。エジプト統一王朝について、時系列に沿ってお話してゆきたいと思います。

 さて、この少し前にお話したメソポタミアの歴史では、「攻め易くて守り難い地形ゆえに、侵略と王朝交代が多い」…というのが特徴でした。
 しかしエジプトはその逆であります。周囲が砂漠で強い力を持つ外敵が少ない上に、エジプト全体が要害の地であるため、他民族の侵入はあまりありませんでした。古代エジプトは33の王朝が成立しましたが、そのほとんどはエジプト国内での政権交代であります。よって、これからお話する歴史の中で特に述べる事が無ければ、王朝交代といっても、エジプト国内での比較的平穏な王朝交代であると認識して頂きたいと思います。

 そんなエジプトに、部族国家を統合した統一王朝が初めて誕生したのは紀元前3100〜3000年頃。上エジプトの北辺にあるテュニスという都市を首都にしたのでテュニス朝とも呼ばれます。
 この王朝を創り上げた初代の大王──いわゆるファラオと呼ばれる──は、当時の化粧版に残された文字からナルメルという名だったと言われています。「世界史B用語集」や教科書には、初代の王としてメネスという名前が載っていますが、これは紀元前3世紀の文献に記載されている伝説上の名前。実際には、恐らくナルメルかその次代のファラオであるアハと同一人物ではないか…とされています。
 このナルメルが開いた第1王朝と、その後の第2王朝までの400年弱を初期王朝時代と言います。この間には、ファラオに権力を集中させる、いわゆる中央集権体制の確立や、効率的な税徴収のための土地台帳作成、さらにはエジプトの外への遠征や交易も実施しています。この時期に古代エジプト王朝の基礎が作られたと見て、まず間違いないでしょう。

 そして紀元前27世紀半ば、第3王朝成立とほぼ時を同じくして、首都が下エジプトの大都市・メンフィスに移転されます。これをもって古王国時代の到来とします。
 古王国時代は第3王朝から第6王朝までの約500年間とされ、地方分権色の強かった古代エジプト王朝の中でも、最もファラオの権力が強かった時代であると言われています。これは、王朝の要職をファラオの親族で固めるなど、徹底的な同族支配と有力部族の排除によってもたらされたものでした。

 この時代におけるファラオの強大な権力を文字通り天下に知らしめているのが、ファラオ1人ごとに建造された巨大なピラミッドの数々であります。
 ピラミッドは、初期王朝時代にも小規模な日干しレンガ造りの“マスタバ”と呼ばれる墳墓が建てられていましたが、古王国時代のピラミッドはスケールが違いすぎるくらい違います。それらの巨大建造物は、偉大なるファラオと彼に支配されるエジプトという国家の象徴に相応しいものでありました。
 古王国時代のピラミッド群の中でも特に有名なものは、第4王朝の第2〜4代のファラオであるクフ、カフラー、メンカウラーによってそれぞれ建てられた3基のピラミッドで、その完成度の高さなども含めて“ギゼーの3大ピラミッド”と称えられています。蛇足かも知れませんが、あのスフィンクスが造られたのもこの時期です。
 最も大きなクフ王のピラミッドとなると、高さ152m、底面積が6ヘクタール(!)というとんでもない規模になっており、10万人規模の作業員が30年がかりで、2トンの石材を230万個用いて造ったと言われています。我々現代人が、ささやかな“高層”ビルを建てて、“近代建築の粋”云々と言っているのが恥ずかしくなるほどの、まさに“エジプト古代建築の粋”を集めたものが、このピラミッドであります。
 ところで、これらのピラミッドは単なる王の墓だと思われがちですが、実は太陽神(ひいては神の子であるファラオ)を崇拝するための神殿という意味合いの方が強かったようです。ピラミッドの正四角錐は太陽光線の象徴というわけなのですね。また、学者の中には「ピラミッドは王の墓ではなかった」という説を唱える人も少なからずいるようです。 

 余談ですが、我々の貧困な想像力では、「ピラミッド建築」と聞くと真っ先に、「重労働を強いられる奴隷が、厳しい役人にムチ打たれている」様子を思い浮かべてしまったりしますが、これは、誤解を受けて文献を残した歴史家の著述を読んで更に誤解をした作家諸氏の過失であります。
 本来の姿は、農閑期の農民が数年から十数年に一度、衣服や食料の支給を受けてピラミッド建築に従事している…というもので、今風に言えば、国土交通省管轄の公共事業でありました。現実はあくまで現実的なのであります。

 ……さて、このようにファラオが権力を一身に集めて栄華を誇った古王国時代のエジプトですが、徐々にファラオを取り巻く状況は変化して行きます
 と言いますのも、王朝が大きく発展してゆくにつれ、国がファラオ1人の手に負える物では無くなってしまったのです。そのため、然るべき官僚組織が整えられ、行政のプロに実務を委ねるようになってゆきました。そしてそれは、ファラオ一族の要職独占が崩れた事を意味します。
 ただ、この構造改革自体は名を捨てて実を取った機能的なものであり、ファラオにとっても有益な面が多いものではありました。しかし官僚制は、為政者が少しでも油断すると、実質権力を部下であるはずの官僚たちに食い物にされ、国自体が地盤沈下を起こしてしまいます。これは戦後の日本に住む貴方なら、非常によくお分かりのことだと思います。
 そして事実、エジプトの古王国王朝も、この官僚制に足を引っ張られて衰退していくことになります。ファラオは実権を失い、続いて国力そのものが失われ、エジプトは第6王朝の終わりと共に無政府時代に突入します。そしてこの後、エジプトはリスタートを切るまでに約100年間の混乱期を体験する事になります。
 しかし、エジプトの歴史はまだ始まったばかりでした。(次回へ続く) 

 


 

10月2日(水) 歴史学(一般教養)
「学校で教えたい世界史」(9)
第2章:オリエント(3)〜
エジプト文明の誕生

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 今回からしばし舞台を変えまして、古代エジプトの歴史についてのお話をお送りする事にします。

 さて、エジプトは、周囲を砂漠地帯に囲まれた極めて少雨の乾燥地帯でありながら、古代を通じて小麦の穀倉地帯として大いに栄えた文明エリア…という、世界でも極めて特殊な地域であります。
 何しろ小麦が生育するためには、冬季を中心に年間300ミリ以上の雨が降らなくてはなりません。しかしこのエジプト地方の降雨量は、海近くのごく限られた地域で辛うじてボーダーライン上、その他の地域では年に1度も雨が降らないというケースも少なくありません。普通なら穀倉地帯どころか農耕生活すら覚束ないはずなのです。
 しかし事実として、エジプトは四大文明の1つとして栄え、やがて統一国家が形成された後は、古代史において重要な位置を占める“先進国”であり続けました。それは何故でありましょうか?

 ──その理由はただ1つ。ここは古代ギリシアの歴史家・ヘロドトスの遺した、余りにも有名な一節をもって説明する事にしましょう。

 「エジプトはナイルの賜物である」

 赤道直下、現在のウガンダ南部を水源とする全長約6700kmの大河・ナイル川。古代エジプトの歴史は、この川の下流域・約1200kmを舞台にして展開されました。

 このナイル川の特徴は、何と言っても年に1回下流域に発生する、緩やかで大規模な氾濫であります。
 これは、ナイル川のもう1つの水源であるエチオピア高原で雨季の夏〜秋に降った雨が、約1ヶ月かけて下流域のエジプトに流れ込むことによって起こる自然現象です。この氾濫が、雨の極めて少ないこの地方に貴重な農業用水を供給し、更には極めて栄養分に富んだ土まで運んでくれるのです。 
 当然、これを使わぬ手はありません。この年に一度、しかも小麦の生育に都合が良い季節にナイル川が運んでくれる農業用水と肥沃な土を使って、エジプト人は大規模な灌漑農業をする事を考え出しました。以前にも述べましたが、灌漑農業は文明発生の近道。これだけを考えても、エジプト文明は、まさにナイルの賜物なのであります。

 話しついでに、エジプトの独特の農法を説明しておきましょう。
 エジプト式農法では、まず日本の稲作のように水田を作り、肥料分を含んだ水を土に染み込ませます。しばらく水を溜め置いた後にそれを一気に排出してしまえば、極めて質の高い畑が出来上がるのです。
 そしてその畑へ種を播けば、もうその後は水をやらなくても麦はすくすくと育ってゆきます。収穫の季節を迎え、さらにそれからしばらく経てば、また氾濫がやって来ます。あとはこれを毎年繰り返すだけ。全く無駄の無い、非常に効率的な農法と言えるでしょう。

 こんな、奇跡としか言いようの無い恵まれた環境の中で、エジプト人たちは自らの文明を作り上げていったのでありました。
 エジプト人は、ハム系という極めて特殊な系統に属する民族で、どうやら紀元前6000年頃からナイル川河畔に住み着き、農耕と牧畜を覚えて集住を始めたと推定されています。恐らく、草原の砂漠化が進むにつれて、アフリカ中から人口が集中して来て、“エジプト人”という民族が構成されたのでしょう。大昔は、今の北・西アフリカの砂漠地帯は草原だったのです。

 そうして“エジプト人”となった人々は、ナイル下流域の中でも、主に2つのエリアに集住するようになりました。
 1つは上エジプトと呼ばれる地域。下流域でも中流に近い、つまり“比較的上流の”エジプトという事になります。地図で見ると下の方(つまり南の方)にあるため、よく誤解する方がいるので気をつけて頂きたいと思います。
 そしてもう一方は下エジプトナイル川が地中海に流れ込む寸前のデルタ地帯であります。大まかに言えば、現在の首都・カイロから北が下エジプトという事になるようです。この下エジプトは、比較的気候に恵まれている上、他の文明地域との交流も可能であったため、時代が進むにつれてエジプト社会の中心的地域へ成長してゆく事になります。

 この2つのエリアでそれぞれ文化が発達し、やがて紀元前3500年頃にはノモスと呼ばれる部族国家があちこちに誕生します。ノモスはエジプト全体で40程度あったと言われ、それぞれに首長という統治者を持っていました。ノモス時代は、メソポタミアで言うところの、ウルクやウルなどの都市国家の時代です。
 そしてメソポタミアが都市国家の社会から領域国家の社会へとシフトしていったように、エジプトもここから400年ほどかけて部族国家の統一が進んでゆき、その結果、部族の首長たちの頂点に立った、ファラオと呼ばれる君主の支配する統一国家が誕生します。
 ファラオとは“大きな家”という意味であり、恐らくは王の住む豪華な住居からついた名前だと思われます。これは、日本の天皇が「ミカド(=御門)」と呼ばれたのと同じ理屈であります。
 ただ、このエジプトの統一国家は、古代王朝としては極めて地方分権的でありました。従来のノモスがそのまま1つの行政単位となり、かつての首長はそのままノモスを支配し、それと同時に国家の重要なポストを担ったのです。ですから、少し油断をすれば、たちまち下克上・王座交代が発生する要素を孕んでいたのです。エジプトはメソポタミアと異なり、自然の要害に囲まれているために、外敵の侵入はほとんどありませんでしたが、その代わりに絶えず内側に敵を抱えていたという事になります。またその有様は、古代エジプトの歴史を追いかけていく上で、詳しく説明する事に致しましょう。

 ……というわけで、次回からは古代エジプトの王朝史に突入して行きます。カリキュラムの都合もあり、しばらくは比較的まったりと進行していく予定です。どうぞ宜しく。(次回へ続く

 


 

9月30日(月) 歴史学(一般教養)
「学校で教えたい世界史」(8)
第2章:オリエント(2)〜
古代バビロニア王国

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 前回は、メソポタミア文明の誕生からウル第3王朝滅亡までの歴史と、その当時の人たちの生活実態についてお話しました。今日はその続きという事になります。

 最後のシュメール統一国家であるウル第3王朝の滅亡後、メソポタミアは一種の戦国時代となります。
 この時代の主役となったのは、ウル王朝を滅ぼした勢力の1つであるセム系民族の一派・アムル人。彼らはメソポタミアに定着した後、各地の都市国家を支配下に置いて行きました。
 その都市国家の中でも、メソポタミア南部のイシンやラルサが有力となりましたが、この2つの国によるメソポタミアの再統一はなかなか果たせませんでした。その間のメソポタミアは、大小20以上にも及ぶ国々が乱立し、いつの間にか200年の月日が流れて行ったのでありました。

 しかし、この膠着した状況の中で密かに力を蓄え、新しい時代の担い手となるべく表舞台にその姿を現した1つの国がありました。それがあの古代バビロニア王国であります。
 このバビロニアの建国は、紀元前1894年頃。初めは首都バビロンを中心とするごく狭い領土しか持たない都市国家だったようです。それからは、有力な国家の隙を突く形で徐々にその領土を広げて行きますが、お世辞にもメソポタミアを統一する有力候補と言えるような規模ではありませんでした。
 ところが紀元前1792年(異説あり)、バビロニア王国にハンムラビという名の王が即位すると、それまでのムードが一変します。
 ハンムラビは、慎重さと大胆さを兼ね備えた有能な王でありました。まず彼は、即位後30年もの間、ほぼ内政に専念して国力を充実させる事だけ考えたのです。しかしそれから外征に転じるや、それまでのスローペースからは信じられないようなハイペースで、次々とメソポタミア中の国々を飲み込んでゆきました。
 何しろ、それまで200年以上分裂状態が続いていたメソポタミア南部を統一するまで僅かに2年。その後も休む事無く北へ北へと侵攻し、更に3年後にはメソポタミア地方の大半を勢力下に置いてしまったのです。まさに電光石火の早業とはこの事でありましょう。
 こうしてバビロニア王国は、メソポタミア地方で久々に現れた統一王朝となったのでありました。その後もハンムラビがこの世を去るまでの間、彼の綿密な計算に基づいた的確な統治によって、王国は大いに栄えることになります。

 そのハンムラビ王の統治については、大量に残された当時の文献資料によって、かなり細かい部分まで窺い知る事が出来ます
 普通、1人で“天下統一”を果たすような王と聞けば、我々は玉座にふんぞり返って威張り散らしている乱暴な王様…という印象を抱きがちであります。が、ことハンムラビに関しては、そんな貧困な発想をしてしまった自分に恥じ入ってしまいそうなほど、きめ細やかで行き届いた政治を行っていたようであります。
 論より証拠、ハンムラビ王が直接部下に発した命令文をいくつかご覧頂きましょう。

 まずは1つ目。今で言う民事訴訟に関する命令書であります。

 ハンムラビは、シン=イディンナム(駒木注:地方長官の名前)に以下のように命ずる。

 賦役負担者のラルムという者が次のように訴えて来た。
 「金融業者がある土地の権利を主張してきました。しかしその土地は、私が以前から所有しているものなのです。それにも関わらずこの業者はその土地の大麦を刈り取ってしまいました」

 このような訴えがあったので、宮殿内の記録を探させたところ、「2イク(駒木注:土地の広さの単位)の土地をラルムへ」と記された粘土板が今見つかった。
 もしも金融業者がラルムから借金の抵当として土地の権利を主張しているのならば、土地をラルムに返し与えるように命ぜよ。そしてその金融業者を処罰せよ。

 この命令書から少なくとも2つの事が分かります。
 まず、今で言う裁判所が設けられ、その裁判所の最高責任者はハンムラビ王本人である事
 そしてもう1つは、この頃には土地台帳のようなものが既に作成され、宮殿内で専門の係員によって管理されていたという事
 ちなみに、この命令書では金融業者を罰するようにとなっていますが、それは「賦役負担者(公共事業に従事する一種の公務員)に国から与えられた土地は、借金の抵当に入れることは出来ない」という法律がハンムラビ法典38条に定められているからです。このハンムラビ法典については後に詳しく説明します。

 次に挙げるのは、役人の不祥事についての2枚の命令書です。

 ハンムラビは、シン=イディンナムに以下のように命ずる。

 シュラマン=ラ=イル(駒木注:役人の名前)は、次のように報告して来た。
 「収賄事件が発生しました。つきましては、収賄した本人と、これらの事件について知識のある証人の身柄を確保しています」

 この報告に基づき、今からお前のもとに、このシュラマン=ラ=イルと何人かの役人を派遣するので、この粘土板を読み次第、直ちに調査を開始せよ。
 もし、収賄の事実が明らかであるならば、賄賂として贈られた銀や物品に刻印をしてこちらに届けるように。また、収賄をした本人と証人を連行せよ。

 

 ハンムラビは、シン=イディンナムに以下のように命ずる。

 商人のイリシュ=イビが次のように訴えて来た。
 「30グルの大麦を代官のシン=マギルにお貸しし、借用書も取り交わしたのですが、3年間催促しているにも関わらず、返済して頂けません」

 私はこの訴えの際に彼が提出した粘土板を検討した。その結果、シン=マギルには借りた大麦とその利息を払う義務があると判断するに至った。
 そういうわけなので、お前は返済すべき大麦をイリシュ=イビに立て替えて支払っておけ。

 役人の不始末は、為政者にとっては4000年前でも頭を痛める問題であった事だったようであります。
 それにしても、収賄をした者の取調べから滞納した借財の肩代わりまで、王という仕事も楽ではないようです。
 ちなみに、この不祥事を起こした役人の名前は、これ以降の行政文書からは一切出て来なくなるようです。彼らの運命はどうなったのか……いやいや、考えたくもありませんね。

 最後にもう1通。こんな命令書もあります。

 ハンムラビは、シン=イディンナムに以下のように命ずる。

 ダナヌム運河の近くに土地を保有する者たちを集めて、ダナヌム運河を清掃させるように。なお、この清掃は今月中に終わらせる事。

 ここまで来ると、王の仕事ではなくて町内会長の仕事であります。
 それにしてもいつも命ぜられてばかりの地方長官、相当な多忙さが目に付きます。このポジション、今で言えば知事や市長にあたるポジションなのでしょうが、この地位に就く人は相当の激務を強いられた事でありましょう。思わず過労死の心配をしてしまいます

 ……とまぁこのように、ハンムラビ王時代のバビロニア王国は、極めて安定した状態でメソポタミアに君臨していたようでありますが、やはりこの時代の行政の充実振りを示す材料として忘れてはならないのは、『ハンムラビ法典』でありましょう。
 この『ハンムラビ法典』、皆さんはまず真っ先に「目には目を、歯には歯を」という言葉で知られる“復讐法”の原則を思い浮かべられると思います。また、高校で世界史を選択された方などは、「加害者と被害者の身分差によって刑罰が違う」という事などもご存知かも知れません。これは確かに事実でありまして、傷害罪の罪は被害者に負わせた怪我と同程度の傷を負うと規定されていますし、貴族が奴隷を殺害しても罰金刑に処せられるだけであります。
 ただ、この2つのポイントだけに囚われてしまいますと、「なんだ、『ハンムラビ法典』って随分な法律だな」…などと思ってしまうのですが、これは大きな誤解であります。『ハンムラビ法典』は、当時の常識に沿った形で制定された、非常に整備された法律書なのです。一見乱暴な規定も、当時の常識が現代社会と違うだけでありまして、これは責めるに値しません。
 『ハンムラビ法典』がよく整備された法律書であるという事は、この法典の第1条から第5条までが訴訟法である事からもよく分かります。その条文によると、「殺人罪(死刑相当)の虚偽告訴をした者は死刑に処せられる」とあり、極めて厳しい法運用を国民に求めている国側の姿勢が見てとれます。決して“野蛮な原始人が作った乱暴な法律”では無い事を理解するべきであります。
 第一、加害者と被害者で刑罰の軽重が違うのは今の日本でも同じ事であります。同じ殺人でも、幼子とその母親を殺せば間違いなく死刑か無期懲役でありますが、“善良な”一般市民がヤクザを2〜3人殺した場合なら、最悪でも10年程度で出て来れます。

 …さて、この他、『ハンムラビ法典』に収録された法律を大雑把に挙げて見ますと、殺人・傷害・窃盗・誘拐・強盗に関する刑法の他、結婚と持参金・離婚と財産分与・相続・養子縁組と廃嫡・姦通などについて定めた民法に相当するもの兵士の権利と義務についての法律土地の譲渡・賃借についての法律金銭の債務・債権についての法律、賃金の規定を定めた労働基準法的なもの奴隷に関する法律など、まさに微に入り細に入り、であります。
 そんな300条近くに及ぶ法律の中でも、特に興味をそそられるのは「酒場に関する法律」というものであります。
 しかもこの法律が極めて厳しい酒場の店主が酒を水で薄めて売った事が判明すれば水死刑犯罪者をかくまったりした場合は焚刑であります。また、女性聖職者が酒場に立ち入った場合も焚刑に処されます。
 …どうしてこんなに厳しい法律ばかりなのかと言いますと、この酒場が極めて特殊な施設であったからであります。
 この施設では、酒を呑むだけでなく娼婦を買うことも出来、しかも交渉次